猿丸太夫

 

 この歌は「古今集」の春の歌の中に「よみ人と知らず」としてある。猿丸太夫の歌の殆んどは「よみ人と知らず」の歌である。逆にいえば「よみ人と知らず」の歌がイコール猿丸の歌なのであって、市井の無名に隠れた隠士などの、貴紳の歌詠みの系譜とは別の伝わり方をした歌に、猿丸の名は生かされて来たのかもしれない。
「をちこち」は「遠近」ともかくが「あちらこちら」の意味。山中の方角はまことに当てどない。一首はあちらを見ても、こちらを見ても、そこがどこであるのか知るてだてもないような山中で呼子鳥の声を耳にした感銘で、それを聞く人の心細さをそのまま反映したように、たよりげにひびいたのであろう。韻律の美しい歌である。
猿丸太夫については「古今集」の真名序の方に記述があり、大伴黒主を同系列の扱っている。「そのさまいやしい」という風体は地方性を感じさせる一面にふれたものであろうか。
「猿丸太夫集」をみると、その歌は季節の情緒と、女人への訴えの歌が多く、他集からの混入もみられて、猿丸太夫の固有な貌を伝える歌の場面は見当たらない。猿丸太夫とは一体誰なのか、どこか、市井を逃れた隠士の風貌も感じられる名だ。
 佐竹本の作者の註には「持統文武御時の人」と柿本人麿なみの古代的位置づけがされている上、「弓削皇子異名」という伝説が紛れこんでいるのも興味深い。そては「猿丸」という名が連想させた「弓削」という名であるのか、「太夫」の称から推察された出自への憶測であるのか、いずれにしても謎の多い人物の一人のようだ。

    奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
             声聞く時ぞ秋は悲しき  百人一首・五

 

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