毘沙門堂門跡
  この門跡寺院は、京都内であるが、東山を越えた山科区(山階)に在る。この寺の始めは山背(やましろ・山城・京都)の地に於いてその歴史は古い。天武天皇の勅願で大宝三年(703)、出雲大路に行基菩薩によって開かれた護法山・出雲寺と云った。最澄(伝教大師)が桓武天皇に奉納された毘沙門天像を、のちに第二皇子葛原親王が仏門に入り、この尊像を貰い受けた。また、最澄(伝教大師)の弟子円珍(智証大師)が天安二年(858)に護法山・出雲寺に住されたと伝えられる。平安京末期の平治の乱(1159)によって寺地を岩倉に移したが、長寛元年(1163)に消失。永万元(1165)大原来迎院に移し、堂宇を建立して御本尊を安置した。その後建久六年(1195)民部卿入道円智が出雲路の旧地に復興した。しかし空しくも元亀の乱で堂宇ことごとくを消失してしまった。その後約100年、寛文五年(1665)天海大僧正に後陽成天皇の再興の勅命が下ったが、果たす事が出来ず弟子の公海大僧正が遺志を受け継いで復興して現在に至っている。こじんまりと、控え目に纏まっていて、仏教の守護神を本尊とする寺に相応しい寺観であろうと思う。本堂には極彩色の彫刻を多様に設えて、日光東照宮を偲ばすものがある。

仁王門(京都市指定文化財)
仁王門寛文五年(1665)師の遺命を果たすべく、公海大僧正が仁王門建立と共に伽藍を整えた。名の如く、阿吽の二天が安置された表門である。

本堂(毘沙門堂)
 小振りの向唐門は朱塗りを施し、云わば赤門である。有料拝観寺院ではあるが、門跡寺院らしき大らかさが残っていて、本堂への参拝は自由である。本尊は、したしく信仰が絶えない毘沙門天の、お前立ちが勤めを果たして、厨子に安置されている秘仏が、夜叉に護られている。また、不動明王への祈願が絶えないため、不動明王前の、護摩木の火が絶えていない事で、堂内の一面の煤が、寺院の誠実さを物語っている。
 世は太平といっても、何事か起これば、いの一番に寺院が被害をこうむる。二度目は通用しないが、毘沙門堂の塀は中に生活空間を設え、塀は矢玉を通さない。塀に設えている千鳥破風に、生活空間であった証しの、その空気孔跡を残している。

枝垂桜(一目千両・樹齢百数十年)
 誰が言ったか一目千両、枝垂桜は地域の人達の春の楽しみであったが、情報社会になってからは、静かな時間はない。公家のおおらかさが残るこの寺院は、秋の紅葉、春の桜の時期でも境内は無料で開放している。
 しかし、その感謝も無く、寺院内が荒れるような事がよく見かけられるが、この様な事が続けば開放される事も無くなるのは時間の問題かもしれない。

閼伽井
 秋の色合の無い時は見向きもされない空間であるが、ある意味では、寺院にとっては重要な井戸である。仏に捧げる閼伽水は、この井戸から汲み上げられる。狭い空間のせいか、秋の終わり頃は散紅葉で敷き詰められ、拝観者の総ての目を引き止めると云っても過言ではない。

宸殿(書院)
 この地での第三世、一品公弁法親王が、後西天皇の旧殿を拝領して新書院とした。襖絵百十六面はすべて狩野益信の筆によるもので、逆遠近法も含めて他に類を見ることができない。
 前庭には昔の名残か桜ではなく、左近の梅を配している。

上段の間
  玉座を敷き古き時代の門跡の地位の程を偲ばす空間です。上段の間、次の間には逆遠近法の壁画、襖絵で中国の故事を偲ばせてくれている。よく聞く話で、絵が動くと耳にするが、絵は動かないし、この手法を誇り見世物にするために描いた画家は、何処にもいないであろう。観光の目玉の如く、歩いて絵の変化を見せて、絵が動くといって案内人が説明をしているが、動いているのは見る人である。座してた目線に合わせて描いているものを、立って見る。それも歩きながら見る事は画家に無礼であろうと思うし、また、これらの趣向に負けてしまう。平面に立体を表す藝術家の血を沸かせたのであろうと想像して、元から仏師、庭師の立体藝術の如くは行かない限界を感じながらの挑戦に、座して敬意をはらいながら拝するしか出来ないでしょう。拝観のすべて、その心情を味わうのが観光ではないでしょうか。

老人の間(九老の図)
  絵画の変化の仕様は、絵画から一度目を離し、座す場所を変えて見る事で、充分と云うよりも、その方が変化が激しく目に映り、画家の心情が解るような気がします。貴方と貴方の見ているものは形の違うものを見ている。それだけが画家の満足であったような気がして、私は拝観する時は、一人三役で場所を移動しながら座して見ています。庭を見るように、山河を見る様に平面にそれを表した事に敬意をはらわずには いられない。
円山応挙筆
 杉の衝立の裏表に描かれた鯉の姿。此れだけは訪れた人が、玄関から歩きながら見て、え、と気付くまでの遊びを感じる逆遠近法のものです。本来は置く場所が違うが、素晴らしい芸術品となった衝立、唐獅子牡丹の襖絵に包まれた部屋に陳列しています。
 観光案内では、この部屋にも面白い話がある。この寺を訪れた人の待合になっていて、獅子が睨みつけて恐怖を与え追い返すという。此れに耐えた人が次 の梅の間に通されるらしい。
 へんくつとお思いでしょうか、唐獅子牡丹、百獣の王と、花(薬草)の王、これ等に護られて安心を与え、心を整わせ面会に備えさす優しさを感じるのです。
 
梅の間(梅花禽鳥図)
 獅子の恐怖に絶えた人が此処に通されると云い、梅に鶯ではなく、不似合いな鳥が止まっている事に気付き、此処はお前の居場所ではないと教えて、帰れと云ってるらしい。
 此処は教えを広める寺院です。この絵は何を教えているのでしょう。梅に鶯と云うように、何事も既成観念に囚われず、自由な発想で努力する者、それを受け入れない場所は無い。何事にも挑戦して真っ直ぐに正面を見なさい。その様に解釈するのが、場所柄にあっていると、感じています。
 ちなみに、梅には鶯は止まる事はないらしい。春告げ草(梅)と春告げ鳥からセットにされたらしい。

晩翠園
 わずかな紅葉であるが、後に大きく広がった常緑樹がそれを映えさしている。そのせいか、紅葉が雄大に見えて狭い庭が広く感じる。観音堂の位置もそれを助け、手前の灯台躑躅がバランスよく纏め、中央の池泉が見えない部分まで広がって居る様に感じる。七重石塔の白さが引き立ち、その根元の緑は何かに対向しているのか。観音堂の存在が一層にこの庭を引き締めている。
 後ろの山からの湧き水で滝も設え、池泉は心の裏文字を模っている。秋は紅が映えているが、この庭の名は、翠(みどり)が主役で、夜目にも、それを想わすところから、晩翠園(ばんすいえん)と云う。

鞍馬自然石手水鉢(無名)

一切経堂
傅大士像(ふだいし)、どの寺に行っても経蔵(一切経)に安置されて居るのを見ます。一切経・ 転輪経蔵の創始者。

清水型観音
傅大士像の後に、清水型の十一面千手観世音菩薩の写し像が安置してある。

弁天堂
 弁財天堂の裾を紅に染めるのは灯台躑躅です。これは本堂裏からの景観です。

高台弁天
 大阪城で大政所高台院湖月尼(お寧)が信仰していた弁才天で高台弁天と称します。住職・一品公弁法親王が所望されて、本堂裏右に安置して、高台弁才天、不老弁天として多くの人々に信仰されている。

山科聖天
瑞光院

拝観時間:
8301700 
大人500(団450)・高校400(団360)・小中学300(団270
団体
15名以上車椅子拝観可(介添人要)(身障者半額・介添人1名半額)
6078003 京都市山科区安朱稲荷山町18 
TEL0755810328
京阪電車山科駅・JR山科駅・地下鉄山科


写真撮影・清耳眼・阿耳眼
       

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