真言宗大覚寺派
嵯峨山・大覚寺
  貞観十八年(876)に嵯峨天皇の離宮を正子内親王(淳和天皇の皇后)が恒寂法親王を開基にて大覚寺としたのが始まりです。南北朝時代には大覚寺統(南朝)として持明院統(北朝)と対立して明徳三年(1392)南北朝講和の際には、此処大覚寺において南朝後亀山天皇が北朝後小松天皇に神器を譲り渡して隠棲された場所です。しかし、離宮は現在の寺院の場所とは違い大沢池の北に位置して「名古曽」の滝が在った所である。「勿来・なこそ」は来てはならない意味で、「侵さざる場所」と云う事か、神聖な場所であった事を示している。

嵯峨未生御流

嵯峨菊

東南の一帯にある真言宗を小野六流と言い、西北一帯にある真言宗を広沢六流と呼ぶ。
称して「野沢・やたく」十二流。
 嵯峨天皇はこの地をこよなく愛して、見ずからの名にして、離宮を造営された。
その離宮を寺にしたのが大覚寺である。大覚寺は他の寺と違って如来、菩薩等の本尊を安置する仏殿は無い。
嵯峨天皇の宸翰の般若心経を納めた心経殿が金堂に当たり法要の総ては別棟の拝殿で行なう。
大覚寺は寺各が高すぎて寺を感じさす事がない。


右近の橘・左近の桜

 禁裏、禁中は右近衛兵が控える場所に橘、左近衛兵が控える場所に梅(後に桜)、二本の木、即ち前に立つ二本の木の後方の壇を示す侵さざるべき場所が禁裏、右近、左近の木木二本の木を基準に示す禁である。
「御所以外、先帝を祀るところにも植えられている事もある」


大沢の池

 南北朝講和の間、此処で北朝後小松天皇が後亀山天皇より三種神器がお手元に授与されたのである。授与された寝殿は現在の建物ではなく、南北朝のものは何一つ残されていないが、三沢池「大沢池、相沢池、広沢池」が水を湛えて月を落として愛でていた時代はどの様であったろう。

 


名古曽の滝跡

野仏
 現在は其れらしき跡しか見ることは出来ないが、この滝が在ることを世に知らしめた二儀性を持たせた歌を藤原公任が残している。
 「滝の音は消えて久しくなりぬれど名古曽流れてなお聞こえけれ」、神聖な滝は消えて無くなったけれども滝が在った事は忘れるべきではない。藤原道長の供で訪れたときの歌と聞く。百人一首五十五番目に記されている。
名古曽の滝、離宮はすでに平安末期には消えていたらしい。
 嵯峨帝は中国に倣って右京を長安城に左京を洛陽城として、発音の程は知らないが嵯峨山をこの地に採り入れたと聞く。天皇の中では一番かぶいた様相をしていたと云い、中国皇帝に近い姿をしていた。

拝観時間:
9001630 大人500・大人500・小中高生300 
団割なし 団体連絡要・車椅子拝観可・連絡要(介添人要)(身障者・介添人無料)
〒―8411 京都市右京区嵯峨大沢町4  TEL 0758710071 
市バス・京都バス大覚寺

写真撮影・清耳眼
      

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