臨済宗大徳寺派
宝龍山・大徳寺
 大徳宗峰禅師が紫野に「大徳」と号して小庵を建てたことに始まり、遍照僧正開基の雲林院の址に伽藍を建立して、花園上皇は院宣をもって祈願所と定め大徳寺と号した。続いて後醍醐天皇も勅願道場にされて五山の上位に列せられた。然し、足利尊氏が天下を掌握すると大徳寺は衰退の道は避けられなかった。義満の世になって五山十刹制が定まると十刹第九位に格を落とされ、此れを辞退して幕府の庇護を受けずに大徳寺独自の宗風を保って林下となった。応仁の乱の時には住持であった一休宗純は堺に一時避難をして、豪商尾和宗臨の寄進を受けて主要部分を再建して都に返り咲き、三門(金毛閣)は連歌師宗長が初層のみであるが寄進したことで寺観はほぼ整った。
現在塔頭二十四院(内二寺)  他にないこの寺の特長

勅使門
勅使門
 慶長時代の御所の御門(陽明門)を移築したと伝わります。 向唐門で上品な静けさを漂わすこの門は、後水尾天皇が当寺の沢庵和尚への紫衣勅許事件がもとで、皇女・女一宮(明正天皇)に譲位されてからのものであり、この江戸初期である事は、大徳寺自ら林下に下っても、なお長く皇室の尊崇が続いていた証の門でもある。この門の内一直線に「三門・仏殿・法堂・寝堂・(庫裏・方丈)」と建ち並んでいます。

金毛閣

 金毛とは、如来の好相の一つ(身体に上向きに生えている金毛・うぶげ)に由来して、つまり悟りを意味する。
 初層のみであったものを人の薦めがあり千宗易(利休居士)が上層部を仕上げ完成したと伝わる。楼上には利休居士が自刃に追い込まれた問題の草鞋を履いた利休像を安置し ている。利休居士の死後は備前の池田家に移されていたが明治 二十一 年ようやくこの位置に帰った。この初層は連歌師である宗長が、秘蔵の「源氏物語」を売却した資金で享禄二年(1529)に再建したとされているが、この門以前のものはわからない。初層は長く風雪に耐えて六十年後の天正十七年(1589)に、千利休居士がこの姿に完成させた。本尊に釈迦牟尼をすえて、十六羅漢を配し、支える柱には極彩色の飛天が一瞬の時を止め、天井には伝・長谷川等伯筆の龍図が全体を引き締めている。

釈迦牟尼

唐門
唐門(非公開)
 明治中期までは境内塔頭、興臨院・瑞峯院・大悲院の総門として勅使門の西に位置するところに在ったものを現在の方丈正面に移築した。 この場に在った明智門は、寺大名と称した南禅寺の塔頭である金地院にある。この唐門は俗に桃山の三唐門と称された一つで聚楽第に在った門である。門と言うりも彫刻の展示場みたいな観がする。日暮門と言われる所以は時間を忘れさす程の彫刻、金具があるからでしょう。

特別公開は春秋(5月と11月)の各1週間程度予定。
日時に関しては直前に本坊まで(9〜15時)TEL075−491−0019」

三唐門(大徳寺・西本願寺、豊国神社)

拝観時間:春秋と特別拝観以外は非公開
境内自由拝観:塔頭内は有料。
車椅子拝観、大徳寺境内は可能(塔頭も背負ったり工夫をすれば可能・院内は座れる)
(駐車場にある拝観券発行所に申し込み、別料金で境内に車乗り入れ可)

写真撮影・清耳眼
      

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