| 真言律宗 | |
| 圓證寺 | |
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享保十一年(1726)「和州圓證寺由来之事」よると、宇多天皇の寛平年間(889〜898)大和国筒井庄(奈良県大和郡山市筒井)に創建されたのが始めとする。 |
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元の黙阿弥 |
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宝永4年発行の「和州諸将軍伝」によると、筒井順昭公は天文19年(1550)6月20日に大和郡山市筒井の城ではなく奈良市林小路の下館において病気(脳腫瘍)で亡くなっている。この時、順昭公28歳、順慶公2歳という年齢であった。 順昭公は病床の枕元に四親族(山田道安・慈明寺順国・福須美順弘・飯田頼直)腹心の部下である三老(島 左近・松倉右近・森 好之)を集め「今現在、筒井家には敵がいないが、味方と思っている者でさえいつ敵になるかも知れない。私の死は、3年間世の中には知らせるな。その間にいつ敵が攻めてきても戦えるだけの態勢をつくっておけ。そして角振町(奈良市角振町)に黙阿弥という私によく似た人物がおる、あの者を私の影武者に使え。」と遺言して亡くなった。その夜の内に亡骸は館の裏に埋葬し、東西の格子扉は壁に替え、角振町より黙阿弥を連れてきた。 黙阿弥は病に臥せっている順昭公として下館で暮らした。それはあまりにもそっくりで給仕の者でさえ気が付かなかった。無事一年が過ぎた時、何時敵が攻めてきても大丈夫な態勢が筒井家側に出来たので、黙阿弥に多額の金銀衣服を渡し元の角振町に帰ってもらい、順昭公の供養を行った。角振町に帰った黙阿弥は町民に迎えられ、「黙阿弥さんが帰ってきた」「元の黙阿弥さんだ」と言うところから、“元の黙阿弥”の言葉が出来たと言われている。世の中では、いつからか“失敗して元に戻る、物事が成就しない”という意味の故事に使われているが、圓證寺では“成功して原点に戻る、物事が成就する”という意味の故事なのである。 釈迦如来坐像 鎌倉時代 桧材による、寄木の内刳造像で玉眼を嵌入している。 右手施無畏印、左手与願印を結び降魔坐(左足が上になる結跏趺坐)で本堂須弥壇上中央に安置。 普賢菩薩騎象像 平安時代前期(国重要文化財) 桧材一木造で本尊釈迦如来の脇侍として配される、合掌騎象形の普賢菩薩像である。合掌する普賢菩薩としては、最も古い時代のものである。 文殊菩薩騎獅像 平安時代後期(国重要文化財) 桧材寄木造で本尊釈迦如来の脇侍として配される、獅子背上の蓮華座に坐す文殊菩薩像である。 普賢菩薩像と、この文殊菩薩は客仏と考えられている。 千手観音像 本尊釈迦如来と同じ、桧材による寄木の内刳造像で玉眼を嵌入している。十一面四十二臂形式の千手観音坐像で、創建時より本尊釈迦如来と共に本堂に収められた仏像(仏教像)である。 不動明王像 平安時代中期 木芯を込めた藤の一材から両手首まで含む全形姿を彫出した重厚なる作風で、弘法大師請来様の古式表現の仏像(仏教像)である。 荼枳尼天像 昭和時代 (秘仏) 胎蔵界曼荼羅外院南方の焔魔天(閻魔天)の傍らに侍座し、大黒天の眷属と言われる。昭和時代に先々代鳳雲和上によって勧請された仏である。 圓證寺本堂 国重要文化財 天文17年(1548)創建 室町末期 筒井順慶の父順昭公が奈良・林小路に外館として創建する。 順昭公死去後これを寺と改め順昭公の菩提寺とした。 桁行3間、梁間3間一重寄棟作り 元の黙阿弥の言葉がここで生まれた 順昭公五輪塔 国重要文化財 天文21年(1552)創建 壇上積基壇上に建てられた花崗岩の五輪塔である。 地輪部に「順昭栄舜坊、天文十九年庚戌六月廿日」の銘刻あり。 圓證寺旧寺地の当主であった筒井順昭公の供養塔。 客殿 至聖坊 昭和60年(1985)創建 昭和遷寺の際、奥書院として建てる。内部に筒井氏ゆかりの伊賀焼陳列室があり、現代伊賀焼を代表する名工の作品十数点が展示されている。 枯山水庭 「雪山」と名づけた石庭。この石庭は釈尊と関わりが深いヒマラヤの山々を著した庭で、台湾の奥地花蓮山より運び出された古潭石という、長い間深い水底で浸蝕された奇石。また、雲珠砂の上の石は印度霊鷲山の頂より到来したものである。 |
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近日写真挿入 |
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