佛華林山・寶菩提院
願徳寺
 この願徳寺は、白鳳八年(679)持統天皇の勅願所として、現在地とは違う向日市寺戸に在った古代大寺院でした。日向明神が刻んだとされる本尊薬師如来を仁明天皇によって安置されたが、清和天皇の御世に広隆寺中興祖道昌によって広隆寺に移され弥勒菩薩に替わって本尊となった。現在も広隆寺に安置されて願徳寺に還ることはない。
その為に願徳寺に光背と台座だけが残り座光堂と呼ばれた時もあったという。
 大寺院であったが応仁の乱や信長の兵火で見る影も無くなり、昭和になってやむなく本尊諸仏を向日市寺戸から勝持寺(花の寺)に移し客佛として安置された。勝持寺横の現在地に昭和四十八年、本堂と庫裏を再建して、ようやく平成八年十二月に本尊、諸仏が帰座されるに至りました。
 如意輪観世音菩薩半跏像・国宝・年代不明・約千二百年以上前作・榧(かや)の一木造素地・像高八八・二、初対面では大方の人が厳しいお顔に見えて、対面の回を重ねるごとにお優しくなり、父かとぞも母かとぞも想えると云う観音さまです。
 

「御本尊・如意輪観世音菩薩半跏像、国宝仏につき、博物館に御出張あり、電話問い合わせ要。」
 


御本尊・如意輪観世音菩薩半跏像(必勝開運・福徳円満)
(国宝・平安前期貞観時代・木像素地・像高八八・二)
 榧(かや)の一木から彫られています。お顔の相や衣の様子から明らかに唐の様式による座で、中国よりの渡来仏あるいは渡来人の作の両説があります。色彩・金箔を施して無く、木そのままのお姿で、千二百年の間に自然に木の肌が変わって来ました。座り方は半跏踏み下げの像・遊華座とも呼びます。白豪は水晶、瞳は黒曜石。上の手は、生老病死などの恐れを取り除く(施無畏)、下の手は願いを叶える(与願)という印です。観音菩薩の印は阿弥陀仏の写しで、手が反対に成っているのが阿弥陀の、大悲の受け継ぎの証です。


青不動明王(厄除招福・交通安全)
(絵所、貞綱の作 江戸時代)
 画像の不動明王の場合、赤・青・黄色とあります。それらは目の色で別けるのですが、お体の色も同じになっています。当寺は青不動明王、向って右にやさしい・おとなしいコンガラ童子、左にやんちゃな・勇ましいセイタカ童子を従えたお姿で、右手の剣は病魔や煩悩を成敗して我々を守護してくれると云う。左手の綱は我々にまとわり付いている束縛を取り自由を与えてくれ、また厄除けや交通安全(旅の安全・修行の安全)として信仰されています。


聖徳太子二歳像(京都府文化財)
(一二九0年頃・一遍上人没後一年か二年あと頃の作)
 南無仏太子像とも云います。太子は二歳の二月十五日、お釈迦様の亡くなった日に東の方を向いて南無仏と云われた。すると合わせた手の間にお釈迦様の舎利(骨)が現れたという言い伝えがあります。日本で仏教を開かれた聖徳太子の功徳をたたえるとか忍ぶという意味でこのような像が鎌倉時代に数十体作られました。当寺の像は時宗を開かれた一遍上人(一二八九年没)の弟・聖戒と云う人で、一遍上人と父如仏の菩提を弔う目的で作らせ、聖戒自らが阿弥陀経や無量寿経を胎内に書き、頭部には阿弥陀様を納められたものらしい。


更新中

拝観時間:9:30〜16:30・300均一・2月は予約要・
車椅子拝観介添人同伴可
(この寺が、良い見本で、本堂に階段があるが、拝観可としています)
〒610−1153
京都市西京区大原野南春日町 
TEL075−331−3823  
阪急バス南春日町・市バス洛西高校前

写真撮影:小耳眼
  

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