平安神宮

大鳥居(昭和四年建)
 羅城門から応天門まで八十五メートルの道幅の大道が右京(長安城)と左京(洛陽城)を二つに分けて、此処は僅かな広さに縮小されて応天門まで延びています。
 さしずめ、この大鳥居は朱雀門でしょうか、大鳥居を通して奥の応天門を見ると小さく見え距離感を感じさせて奥行きが深く成り遠近法になっています。

応天門
 明治二十八年が平安京誕生からちょうど千百年に当たり、村興しならぬ都興しが民衆の中から起って市政、府政を動かし、奠都千百年と第四回勧業博覧会が始まりました。その折の一つの事業が平安神宮として現れたのです。平安京の中心朝堂院の形式を三分の二の規模で再現させました。祭神は平安京最初の天皇、桓武天皇と、最後の天皇孝明天皇(明治天皇の父君)。地位・功績・怨霊の三つが有って神として神社に祭られるのが通常ですが、この神社の祭神には怨霊は有りません、それも伴ってか結婚式が多く、嬉しい神社で京都市民の氏神に相応しい。応天門は最後の門、つまり宮中の門でした。
 長くこの場所は、平安神宮が建立されるまでは野菜畑や雑木林ばかりの寂しい場所でしたし
 天皇が南に向いて座すために建築物も南に構える。揺ぎ無い天皇大帝星(てんこうだいていせい・北極星)を背にするためであろう。大極殿を中央に、右に白虎楼、左に蒼龍楼、大極殿の奥には内拝殿、本殿が在り前庭には右近の橘、左近の桜が並んで立っている。
南を向いて堂々とした容、東の京都とされた所に負けじとした当時の京都人の意気込みを感じる。

右近の橘

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左近の桜

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この右近、左近の木は御所紫宸殿の写真を使用しています
 
 紫宸殿の前庭の右近衛兵が控える場所に橘、左近衛兵の控える場所に梅が、仁明天皇の御世から桜に替わった。この二本の木木が示す裏が禁裏と云い、その奥が内裏である。もしも枯れたら近衛兵が植え替える。それぞれ左右の木を受け持っていたのです。
 橘の話ですが、田道間守(多遅摩毛理・たじまもり)、この人は、日本人以外で唯一人、天を冠する天日矛命、新羅の王子の後裔です。田道間守は垂仁天皇の勅命で「 非時香菓・ときじくのかくのこのみ」を探しに大海の彼方に旅立ち、天皇はこれを待つことなく崩御された。崩御の翌年に、探すこと十余年経ち、香果を携えて勅命に応えたが、間に合わずして、天皇の御陵の前に香果を供えて叫ぶこと恥じることなく嘆き悲しみ哭死して果てた。殉死に等しく悲しまない人は居なかったと言う。
多遅摩毛理の名に、遅れたこと勅命を守った事を残しているのか、田道間守である。
 多遅摩毛理花・多遅摩花・多遅花・転化して橘の花の名として今に伝へ、但馬の中島神社に、今も菓子の神として祀られている。天皇・先帝の前に橘は供しているが、左近の梅が何時頃添えられたかは知らない。(梅の後に桜になる)
 ちなみに、瀬戸内に入った時に万が一のことを考えて、一束(種)、一束置いて都へ帰った。これが瀬戸内を元に広がっていった柑橘類であると云う。 橘の地名を残す所の説を見るが、この時は橘の名はない。江戸時代までは木の実と、今で云う菓子の区別はなかった。草冠が示すように菓子とは果物のことでした。

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拝観時間:
31日〜314日・91日〜10318001700
315日〜8318301730111日〜2月末8301630・時間内境内自由
神苑拝観・大人、600(団550)高校600(団300)・中学300(団200)・小学300(団150
団体30人以上・車椅子拝観可(介添人無しの場合は東神苑が可)
身障者連絡の場合は本人・介添人共100円・無しの場合は300円)
6068341 京都市左京区岡崎西天王町97 
TEL0757610221
市バス京都会館美術館前・地下鉄東山


写真撮影・清耳眼


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