| 天台宗 |
| 法住寺 |
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この法住寺は、夫人と息女祇子の菩提を弔うために、藤原為光(後に太政大臣)創建の寺でった。 |
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| 後白河法皇が、最も崇拝していた「身代わり不動尊」は今でも京都内外からの信仰を集めています。 「改築中」 院政時代に建立した三十三間堂ですから、長い歴史の中で分断されても、この寺が継承されている事は都ならではの事と、加えて、後白河上皇御陵の存在が大きい。 |
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| 豊川枳尼真天・厳島弁財天合祀 |
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| 毘沙門天・護法魔王尊 |
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| 竹男大龍神・白峰弁財天 |
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| 阿弥陀堂 |
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| 阿弥陀堂内陣 |
| 中央御本尊左側 親鸞聖人御作・(範宴の頃)阿弥陀如来立像(来迎印) 女人禁制の比叡山西塔から、東山渋谷の仏光寺に下山したが、仏縁と云うものなのか、明治から法住寺に鎮座する事になった。 親鸞聖人御作・(範宴の頃)親鸞聖人そば喰いの坐像御影 比叡山から、六角堂に毎夜通われた頃(建仁元年)。天台座主が衆僧と共に蕎麦を食されたとき、その蕎麦の振る舞いを身代わりになり食べ、あたかもいるが如く、留守を守ったと言う伝説 を持つ像です。阿弥陀像と時を違わず、同じ渋谷から法住寺に安置されるに至った。 |
![]() 後白河天皇法住寺陵 |
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第一皇子守仁親王に譲位して、二条天皇の誕生の時から上皇となり院政を始め、保元の乱では兄崇徳上皇を讃岐に流し、のち、平治の乱、治承、文治の内乱、六条天皇、高倉天皇と即位を繰り返して、後白河上皇は、院政を捨てることなく、高倉天皇に即位させてから、出家して行真法皇となり、なおその力は衰える事はなかった。しかし、平氏打倒をくわだてた鹿ケ谷の密議が発覚して、清盛により幽閉され院政の幕を閉じるが、その力は、木曾義仲の上洛により復活する。同じことは繰り返し、義仲の兵に法住寺を焼失され、幽閉される。鎌倉の頼朝を利用し、義仲を討伐をさせて、六条
御所・長講
堂「(六条西洞院(平業忠邸)」で院政をはじめる。「上皇崩御後、移転を繰り返し、現在、河原町六条」。武家台頭の中で、それらを操りながら波乱に人生、建久三年三月十三日六条殿で崩御された。無情、義経と兄頼朝の仲違もこの人の企てであった。日本国第一の大天狗と言われたが、六条殿長講堂(長く法華経を唱える・講とは法華経をさす)では、数々の乱で亡くなった者の菩提を弔っていた。その中に、清盛も加わっていたという法皇の信仰の深さを見せた一面がある。ここ法住寺陵には、後白河上皇の尊像を御安置して、
法住寺は大興院と名を変えながらも、永く守護してきた。 後白河天皇法住寺陵、明治以降は宮内省管轄になりましたが、場所は法住寺裏と変わっていません。 |
更新中
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拝観時間:9:00〜17:00・500円均一(説明案内あり) 車椅子拝観境内のみ可 〒605−0941 京都市東山区三十三間堂廻り町655 TEL075−561−4137 市バス博物館三十三間堂前または東山七条・京阪電車七条 |
写真撮影・清耳眼・阿耳眼 |
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