天台宗
法住寺

この法住寺は、夫人と息女祇子の菩提を弔うために、藤原為光(後に太政大臣)創建の寺でった。
祇子は花山天皇の后になり、わずか八ヶ月で儚く世を去りました。その死に悲しむ花山天皇を、藤原兼家らの策謀により、元慶寺に連れ込んで出家を促して退位させられた事は記録に見ます。夫人と息女祇子の菩提寺は、不幸にも、後一条天皇御世、長元五年(1032)に焼失しましたが、広大な寺であったという。
 現在の法住寺は、二条天皇に皇位を譲り、後白河上皇の御所法住寺殿造営をする際に諸堂を建立した事に始まります。後白河法皇は天皇にわたって院政を行なったのは、この法住寺殿を拠点にしていた事で解る様に、当時の政治の中心であったのです。蓮華王院(三十三間堂)もこの寺の御堂であった。
再度上洛してきた木曽の源義仲軍の兵火によって、堂宇は炎上したが、蓮華王院だけは免れ、他の堂宇は再興されました。
 後白河上皇が崩御されて、御陵寺として維持されましたが、明治維新に御陵と分離され、一時期は大興徳院と改名しました。しかし、昭和三十年に元の寺名・法住寺になる。
 訪ねてみれば、後白河法皇の法住寺は、その遺構をつなぎ合わすと、その広大さが偲ばれます。
この寺は、時代の流れの中で縮小されて、その歴史が途切れたかに見えるが、確かなものを辿って、寺格の違いを見逃したくない。

 後白河法皇が、最も崇拝していた「身代わり不動尊」は今でも京都内外からの信仰を集めています。
「改築中」
院政時代に建立した三十三間堂ですから、長い歴史の中で分断されても、この寺が継承されている事は都ならではの事と、加えて、後白河上皇御陵の存在が大きい。
豊川枳尼真天・厳島弁財天合祀
毘沙門天・護法魔王尊
竹男大龍神・白峰弁財天
阿弥陀堂
 
阿弥陀堂内陣
中央御本尊左側
親鸞聖人御作・(範宴の頃)阿弥陀如来立像(来迎印)
女人禁制の比叡山西塔から、東山渋谷の仏光寺に下山したが、仏縁と云うものなのか、明治から法住寺に鎮座する事になった。
親鸞聖人御作・(範宴の頃)親鸞聖人そば喰いの坐像御影
比叡山から、六角堂に毎夜通われた頃(建仁元年)。天台座主が衆僧と共に蕎麦を食されたとき、その蕎麦の振る舞いを身代わりになり食べ、あたかもいるが如く、留守を守ったと言う伝説 を持つ像です。阿弥陀像と時を違わず、同じ渋谷から法住寺に安置されるに至った。

後白河天皇法住寺陵
 第一皇子守仁親王に譲位して、二条天皇の誕生の時から上皇となり院政を始め、保元の乱では兄崇徳上皇を讃岐に流し、のち、平治の乱、治承、文治の内乱、六条天皇、高倉天皇と即位を繰り返して、後白河上皇は、院政を捨てることなく、高倉天皇に即位させてから、出家して行真法皇となり、なおその力は衰える事はなかった。しかし、平氏打倒をくわだてた鹿ケ谷の密議が発覚して、清盛により幽閉され院政の幕を閉じるが、その力は、木曾義仲の上洛により復活する。同じことは繰り返し、義仲の兵に法住寺を焼失され、幽閉される。鎌倉の頼朝を利用し、義仲を討伐をさせて、六条 御所・長講 堂「(六条西洞院(平業忠邸)」で院政をはじめる。「上皇崩御後、移転を繰り返し、現在、河原町六条」。武家台頭の中で、それらを操りながら波乱に人生、建久三年三月十三日六条殿で崩御された。無情、義経と兄頼朝の仲違もこの人の企てであった。日本国第一の大天狗と言われたが、六条殿長講堂(長く法華経を唱える・講とは法華経をさす)では、数々の乱で亡くなった者の菩提を弔っていた。その中に、清盛も加わっていたという法皇の信仰の深さを見せた一面がある。ここ法住寺陵には、後白河上皇の尊像を御安置して、 法住寺は大興院と名を変えながらも、永く守護してきた。
 

 後白河天皇法住寺陵、明治以降は宮内省管轄になりましたが、場所は法住寺裏と変わっていません。
 まさか、皇位が廻り来るとは思ってもいない、雅仁親王は自由な生活の中で、一際風流に長けて、今様も好み、今風で云うSFにも興味を強く持っていた歴代稀な天皇、上皇、法皇でした。このあと、日本国は、大魔王、崇徳院の呪い通りにになり、明治維新、讃岐より白峰神社をお迎えするまで皇室はしずかであった。 非情にも兄を讃岐に流したが、白峰弁財天を祀る法住寺、白峰とは崇徳院隠棲の讃岐白峰に他ない。


更新中


不動堂は改築中

蓮華王院(三十三間堂)


拝観時間:
9001700500円均一(説明案内あり)
車椅子拝観境内のみ可
6050941 京都市東山区三十三間堂廻り町655 TEL0755614137
市バス博物館三十三間堂前または東山七条・京阪電車七条

写真撮影・清耳眼・阿耳眼


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