方広寺

大黒天堂

 鐘楼とこの建物だけの方広寺、付け足した事が一目でわかる向唐破風、建物全体を眺めれば朽ち果てた異端児を想わす。この奥に、その異端児の護持、三面大黒が祀っている。建物の 左側は本堂として、盧舎那仏座像が秀頼建立の名残を留めているのが、古の方広寺を僅かに偲ばせている。


大黒天堂・天井絵

三面大黒(弁財天・毘沙門天)

 大黒天堂(豊太閤護持) 堂内に安置する開運大黒天は、天台宗の開祖最澄(伝教大師)が延暦年間桓武天皇の勅命により、皇室の鬼門に当る比叡山に鎮護国家の道場を建立するため登叡の道途に笑みを含む神人 として現れたものです。この大黒天は「普利衆生生皆今難苦得安穏楽世間之楽及涅槃楽」の句(法華経薬草諭品の中)を唱え、「この山を開き、法を弘め給えば永く守護しまいらせん」とお告げにな たそうです。その場所は叡山の聖地で大黒谷と呼ばれていましたが、何時の日か黒谷と呼ばれるようになっています。法然上人の叡山(黒谷)での修行の地であったことから、 上人下山で建立した吉田山の金戒光明寺は、上人を偲ぶと共に尊びをもって、清音にて、(くろたにさん)と、今も親しまれている。
 最澄は「世間出世間の離苦得楽の誓願を立てるのは、大黒尊天の庇護によらざる辺駆らず」と感じられ、その所感の像を自ら彫刻し供養せられたのが、三面大黒像であり、此の三面大黒像は勧請したものか、その物なのかは知るよしもないが、延暦寺の大黒堂に も三面大黒最初の信仰の像として祀っている。 左に毘沙門天、右に弁財天を伴ない、大黒天がその力を吸収し、三体を一体として三面大黒と称しているのでしょう。


盧舎那仏座像
盧舎那仏座像 原寸10分の1の盧舎那仏座像・光背に配された化仏は上部になるほど大きくしてあり、下から拝しても同じ大きさに見える様に遠近法を施しています。
 
 この寺は木造盧舎那仏座像を本尊とし、木像・銅像・木像と繰り返しました。
最初は天正十四年(一五八六)に秀吉公により創建された大仏殿方広寺の大仏は、前面八十二米・側面五十七米・高さ五十米の大仏殿の中に漆を塗り金箔を置いて彩色された十九米のもので在りましたが、慶長元年(一五九六)の大地震に破壊し、同七年に炎上した。南大門を蓮華王院(三十三間堂) 東南に据えて、太閤塀をめぐらした、壮大な敷地にした。その敷地内には当然の如く蓮華王院があり、これを取り込んでいた事になる。
 その後、同十五年に徳川氏が父の菩提と称して再興を勧めて、秀頼公に大阪城の黄金を使わせました。十九米の金銅大仏を再興させたのでありますが、この大仏も、寛文二年の地震により倒壊してしまったのであります。この大仏像は徳川氏により、寛永通宝に改鋳され、特にその貨幣には寛文の文の字が刻まれ、文銭・大仏銭と呼ばれておりました。そのかわりに同四年に木造の大仏が造られました。又寛政十年に雷火により焼失し、天保十四年に尾張を中心に伊勢・美濃・越前の人々の寄進により木造半身の大仏像がまつられましたが、また昭和四十八年、不注意により火災で焼失してしまい、現在は本堂・大黒天堂・大鐘楼を残すのみとなっております。
 方広寺と云う寺名の由来は、「釈迦華厳説法方広之体相」に因る。

眉間篭り仏
 秀頼が再興した銅像の眉間に篭めていたらしい。地震で破壊された時に出てきたという。
 江戸にことごとく持ち帰り大仏銭になったはずであるが、何故かこの仏が残った。
ちなみに、当時は寸法がいい加減であったのか、同じ大きさの大仏銭で足袋の寸法は文数で計られたと云う。今は足袋も靴も文数で注文はしなくなりましたが、ここの大仏様からとは、もったいなや、もったいなや。

伝・左甚五郎作伝
 この方は何処にでも現れて彫り物を遺しているが、隣の豊国神社の唐門にも甚五郎の彫刻と伝えられ残っている。甚五郎は飛騨から出てくる匠の屋号のようなものであったと聞いた事があった。左・甚五郎は一人であった でろう。こんな話がある、昇り竜と下り龍の注文を受けて、本物の龍を一目見て良い仕事がしたいと念じ、嵐山の蛇ヶ谷に黄金色の龍が出る伝説を聞き、谷に篭ったらしい、運よく龍が出てきて、両目で見たら失明するという言い伝えを思い出し、思わず片目を閉じてしっかりと龍の姿を片目に焼き付けて素晴らしい龍を彫ったという。
 もう一つ左の名の所以が有るが止めておこう。
 

国家安康君臣豊楽の鐘
 鐘楼は大正時代の再建ですが、この鐘は秀頼が鋳造させた鐘で、一説によると梵鐘の音色を良くする為と称して、かなりの(今で言う五パーセント位)黄金を加えて鋳造した鐘との事です。慶長十九年(一六一四)に鋳造された大鐘は京都三条釜座の名古屋三昌によって完成されました。散々と軍資金を減らされたあげくに、豊臣家は滅亡へと一直線に進んでいくのでした。
 これも大仏と同じく、徳川家の政治的な策として、豊臣家の軍資金となる黄金を使わす為の手段でした。梵鐘に刻まれている、銘文を作られた清韓長老は、大仏殿の荘厳な様子を書き記した、悪意の無いものでしたが、家康の黒衣宰相と云われた以心祟伝らによって、その文中の「国家安康・君臣豊楽」とは「家康の字の間に安を入れ、身体を二つに分けて呪い豊臣家は栄えさす」つまり、家康が死ぬ事で国家や豊臣家が栄えると故意に曲解して読み取られ、豊臣氏討伐への口実にされたのです。漢文に長けていた以心祟伝の解釈とは思えない、実は林羅山の解釈で、無理な解釈である事は承知で、家康は此れを採用して豊臣家討伐に突入させたのでしょう。御家安泰の為に従順を装っていた豊臣家に焦りを感じたのでしょうか。
 梵鐘の寸法:高さ四・二米 口径二・八米 厚さ0・二七米 重さ八二・七屯、梵鐘の内側には淀君の姿らしきものあり、豊臣家の恨みの址が残ると言う。

方広寺入り口の石垣
 門前に並んでいる石垣の大きさは大阪城の石垣をも思い出す、各大名の普請であるが、都の人夫の賃金が高くて各大名は泣いたという。特に一番大きい北端の石垣は前田家の普請と云われ、泣き石と呼ばれている。

 

拝観時間:
9001600大人・高校・中学200(団180)小学100・団体20名以上
車椅子拝観不可
(背負いながら、それぞれの説明場所で座れば可)
鐘堂内は本堂の拝観者のみ鍵をお渡しいたします(鐘つき行為は厳禁)
6050931 京都市東山区大和大路正面東入茶屋町5272
市バス博物館三十三間堂前または馬町・京阪電車七条
     

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