| 天台宗 | |
| 釈迦山・百済寺 | |
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当山は、推古天皇の御世に、聖徳太子の御願により創建された古刹で開創当時の御本尊は、太子御自作の「植木の観音」であったと伝えられる。 元亀元年秋、佐々木義治等、織田信長の抗し、森備前守(その子僧となり当山南谷光浄院に住す)等、義治を奉じ、鯰江城に入るや、当山衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護した為、これを知った信長の兵火により惜しくも一山悉く焼亡烏有に帰し、僅かに御本尊等数体の主な仏像と、重要な経巻類を.奥ノ院西ケ峰に遷座守護し難を免れたにみであった。まことに有為転変の世の姿をそのままに、荒涼人影を見ぬこと10年、信長も亦、本能寺の煙と化した。これによって天正12年、当山には、堀秀政により仮本殿が建てられ、慶長7年に至って146石5斗の寺領として免除され、一山の坊舎もその数を増し、漸く復興に向った。その後、寛永年間には天海僧正の高弟、亮算入寺し伽藍の再興を計り勅許を仰ぎ、寛永14年には明正天皇綸旨を下し給い、改建を勅許された。 |
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| 百済寺一山本坊の喜見院は、もと千手坊と称していたが、寛永11年、山門三院執行探題大僧正天海の高弟、亮算が千手坊仙重の後任として入山するや、千手坊を喜見院と改めた。 その後、元文元年、喜見院は自火により焼失したが、元文2年井伊家より人夫34人の寄附を得、二王門の側に移転改築された。 現在の建物は昭和15年、二王門側より再度移転改築されたもので、これに伴ない庭園も亦、拡大移築したものである。 池泉回遊式且つ観賞式で旧庭園と同様に、山上眺望の見事な庭園であります。 東方の山々を借景とし、その山林から自然に開けた山水で、庭石は旧庭園のものを移し、更に山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて作庭されたもので、書院正面中央の池畔に置かれた平らな石を拝石とし、その正面の渓流の源に見える巨石が不動石である。東の山の谷水が、この石間から流れ出て渓流となり、池に落ちて護岸の巨石や山影を写し、この池泉を廻って歩を運び、山に登って山頂に達すると、湖東の平野が眼下に展開し、遠くは比叡の御山に連なる山並みを眺望することが出来る。 |
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古仏像 本尊 木造十一面観世音菩薩立像・・・1体 藤原時代 木造聖観音座像/・・・・・・・・・・1体 明応7年 木造如意輪観世音半跏・・・・・・・・1体 明応8年 金銅弥勒菩薩半跏・・・・・・・・・・1体 不詳 木造阿弥陀如来座像・・・・・・・・・1体 鎌倉時代 他文化財多数有り。 |
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近日写真挿入 |
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〒 527−01 滋賀県愛知郡愛東町大字百済寺 TEL 0749−46−1036 JR東海道線能登川駅下車、近江バス百済寺 名神高速道路、八日市インターより15分 |
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