天台宗
釈迦山・百済寺
 
 

 当山は、推古天皇の御世に、聖徳太子の御願により創建された古刹で開創当時の御本尊は、太子御自作の「植木の観音」であったと伝えられる。
 その後、時代は移り平安京に都が奠めれられ、比叡山に天台宗が開創されると、やがて当山も天台の寺院となり、その規模は拡大され、湖東の小比叡山と称されたほど壮大な寺院となった。「東寺観智院文書年代記近衛天皇天養元年の条」に「百済寺号天台別院」と記されてあり、現在のご本尊は、この頃に造立された十一面観音菩薩(藤原時代)である。
又、勧進帳(明応)序文によれば「当寺一山境内を東西南北四ッ谷に分け、七間四面の本堂には楼門廻廊を配し、五重塔婆・常行三昧堂・阿弥陀堂・太子堂・二階堂・大聖堂・五大力堂・愛染堂・長徳院・三所神殿・鐘楼・経蔵寺の諸堂甍を連ね、四ッ谷の塔頭三百余坊」とあり、平安末期から鎌倉室町に至る間の当山はまことに荘厳な大寺院であった。
然るに明応7年、自火により本堂附近の建物を焼失したが、当時はなを再興し得る勢力を保っていた。当山の衰亡は、これより70年余の後、天正元年であった。

 元亀元年秋、佐々木義治等、織田信長の抗し、森備前守(その子僧となり当山南谷光浄院に住す)等、義治を奉じ、鯰江城に入るや、当山衆徒は寺内にその妻子を預かり、兵糧を送り援護した為、これを知った信長の兵火により惜しくも一山悉く焼亡烏有に帰し、僅かに御本尊等数体の主な仏像と、重要な経巻類を.奥ノ院西ケ峰に遷座守護し難を免れたにみであった。まことに有為転変の世の姿をそのままに、荒涼人影を見ぬこと10年、信長も亦、本能寺の煙と化した。これによって天正12年、当山には、堀秀政により仮本殿が建てられ、慶長7年に至って146石5斗の寺領として免除され、一山の坊舎もその数を増し、漸く復興に向った。その後、寛永年間には天海僧正の高弟、亮算入寺し伽藍の再興を計り勅許を仰ぎ、寛永14年には明正天皇綸旨を下し給い、改建を勅許された。
住僧などは大いに喜び、諸国に勧進し井伊直孝朝臣御取持ちを以って、利勝・酒井忠勝・栄勝院局・春日局の喜捨を得、尚、甲良豊後守宗広より金子500両の寄進あり、慶長3年、本堂・仁王門・山門等が竣工した。これが現在の建築物である。正式には百済寺(ひゃくさいじ)と云います。


喜見院の庭園

 百済寺一山本坊の喜見院は、もと千手坊と称していたが、寛永11年、山門三院執行探題大僧正天海の高弟、亮算が千手坊仙重の後任として入山するや、千手坊を喜見院と改めた。
 その後、元文元年、喜見院は自火により焼失したが、元文2年井伊家より人夫34人の寄附を得、二王門の側に移転改築された。
 現在の建物は昭和15年、二王門側より再度移転改築されたもので、これに伴ない庭園も亦、拡大移築したものである。

池泉回遊式且つ観賞式で旧庭園と同様に、山上眺望の見事な庭園であります。
 東方の山々を借景とし、その山林から自然に開けた山水で、庭石は旧庭園のものを移し、更に山内の谷川から運んだ巨石を組み合わせて作庭されたもので、書院正面中央の池畔に置かれた平らな石を拝石とし、その正面の渓流の源に見える巨石が不動石である。東の山の谷水が、この石間から流れ出て渓流となり、池に落ちて護岸の巨石や山影を写し、この池泉を廻って歩を運び、山に登って山頂に達すると、湖東の平野が眼下に展開し、遠くは比叡の御山に連なる山並みを眺望することが出来る。

古仏像

本尊 木造十一面観世音菩薩立像・・・1体  藤原時代

木造聖観音座像/・・・・・・・・・・1体  明応7

木造如意輪観世音半跏・・・・・・・・1体  明応8

金銅弥勒菩薩半跏・・・・・・・・・・1体  不詳

木造阿弥陀如来座像・・・・・・・・・1体  鎌倉時代

他文化財多数有り。


近日写真挿入

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