| 真言宗別格本山 | |
| 高雄山・神護寺 | |
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この寺は、平安京造営大太夫和気清麻呂が天応元年(781)に創建した和気氏の氏寺、高雄山寺に始まるという。延暦二十四年(805)に最澄がすでに伝法灌頂式を行ない入寺していたが、空海は二十年間の留学を僅か二年で密教を習得して、大同元年に帰国、弘仁元年(810)に高雄山寺に入り、国家鎮護の秘法を修する事を朝廷に奏して、天長元年には定額寺に列しられ、河内国石川郡に在った清麻呂創建の神願寺と合併させて神護国祚真言寺と改めた。空海が神護寺初代住職になり、同六年には空海の永代付属寺になった。 因みに、中国で密教を本格的に学ばなかった最澄は、求法弟子として弘仁二年(812)に、この寺で空海から灌頂式を受け密教を学ぼうとした。 |
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![]() 境内より楼門 |
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| 神護寺楼門、左が増長天・右が持国天、文覚上人が神護寺再興の折に運慶に二天像を造らせたとあるが、その像は無く現在の像はそれよりも古い藤原時代作と伝わる。 | |
![]() 金堂(国宝) |
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| 昭和の建築物で、宮大工の集大成の結晶建築物です。元本堂はこの新金堂の下に現在は毘沙門堂として名を替えています。 | |
![]() 和気清麻呂公霊廟と鐘楼(後方) 梵鐘は銘の神護寺と称して(国宝) |
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| 神護寺の梵鐘は、型の平等院・音の三井寺(園城寺)・銘の神護寺と謳われた鐘です。 梵鐘は小納言和気恒範(つねのり)が造らせた。序は橘広相・銘は菅原是善・書は藤原敏行・右少弁・参議・図書頭と当代名家によるもので三絶の鐘と称しています。 平安末期には殆どの伽藍は消滅して見る影もなく、文覚上人が源頼朝の援助により伽藍を整えて復興を果たしたが、この山奥も町と違わず応仁の乱によって大師堂のみ残して諸堂は兵火から逃れる事は出来ませんでした。現在の寺観は江戸期に楼門・毘沙門堂(元金堂)・五大堂・鐘楼と再興されて、新たに金堂・多宝塔を昭和時代に新築して、本尊を新金堂に移し其れまでの金堂は毘沙門堂となりました。 |
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![]() 先が毘沙門堂(元金堂)と五大堂 |
![]() 多宝塔・五大虚空蔵菩薩(五体共国宝) |
| 平安仏教の始まり密教、空海の日本での出発は、この寺からと言っても過言ではありません。その後、この寺は荒廃して、現在まで寺を継承できているのは、鎌倉時代の快僧文覚上人の功績は見逃すことは出来ません。
この心意気と伝承が、江戸時代の再興につながった事でしょう。 秋には紅葉でも有名ですが、新緑の神護寺は参道に至るまでの道のりが人の少なさも手伝い一味違う趣を見せてくれます。写真には載せていませんが奥深い境内には、山中が展望出来る谷があり、祈願を込めての皿投げなどもあって、一時の休息が楽しめます。 成田不動の事 成田山・新勝寺の縁起は、公式ホームページに記載されているが、平将門の乱の調伏の密勅をうけ、この地より旅立ち、海路、陸路をつかい、成田まで行かれたらしい。任が終わってもこの地には帰ることは無く、成田で新勝寺の本尊として現在に至っている。突然微動だとして動かない、それを否定して返却を迫る事は、その不思議を否定する事になり、霊験あらたかさも否定する事になる。この様な例はよくある。平将門の乱の終局を迎えて、この地でこそ、その功績は生きてくる。縁起のとおりの理由で動かなかった不動尊は、江戸期には深川不動堂まで快く動いた。それは、成田で、堅固なる地盤を固めていたからであろうか。調べようの無い、聞く話では、現在も、その借料は、この神護寺ではなく、東寺の観智院に納められているらしい。 |
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拝観時間:9:00〜16:00・大人、400(団350)中高共400(団300)・小学200(団150) 12/30〜12/31は金堂内陣拝観不可 団体30名以上 車椅子拝観(境内可・介添人要)(注意・消防道を通る事になるので、前もって電話要が安心) 〒616−8292 京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 TEL 075-861-1769 市バス高雄・JRバス山城高雄 |
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写真撮影・小耳眼 |
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