北野聖廟
北野天満宮 

楼門
  御前通りが、南から長くこの天満宮まで延びて、今では、天満宮の東門を通り過ぎて、なおも延びている。何の御前か想像が付けるでしょう。
 この神社の創建は天暦年間(947〜957頃)でしたが、その頃は、この地を社の形として占めた程度で、天徳三年(959)に右大臣藤原師輔が社殿を整えて、その二十八年後、永延元年(987)に初めて勅命により、北野祭が執り行われ、天満天神の名が勅号になったのです。いわば、道真公を想う人達の根回しと、失政の帳尻を合わす中央の思いを遂げた事を見逃せない。

東門
  此処は天満宮が出来るまでは、右近の馬場(むばば)と称して右近衛府の鍛練所で、内裏の西裏に位置してた。古くから内裏の水源地(水脈)でもあり、聖域として、付近には民家などは無かったところです。ちなみに、左近の馬場は、現在の西の洞院武者小路辺りらしい。
 また、元々この場所には、土着信仰の天神様を祀り、農耕者や民衆の信仰を集めていた場所のようであった。
 地位・功績・恨みが神となり祀られ、神社の創建となる様であるが、地位・功績・哀しみが、この神の特長ではなかろうか。恨みとされている部分は、失政に利用されていて、道真公に敬意をはらい、独断で恨みは除きたい心境です。

大茶会の碑(楼門手前)
天正十五年(1587)には豊臣秀吉が聚楽第完成祝いに、北野大茶会を開いて多くの話を残しています。太閤井戸など、遺構が楼門右側の空間に在ります。聚楽第の落成を記念して行われた大茶会は茶室を設えて秀吉晩年の夢のあとです。茶会が終わった後に各茶室を移築して、その一つの、三斎公(忠興)の松向軒は大徳寺塔頭、細川家の菩提寺高桐院に現在もあります。
松向軒の名は北野天満宮境内にある菅公影向(ようごう)の松の元に建てた事によると言う。
移築したはずなのに、なぜかこの神社にもある。
 

三光門

三光門内部(拝殿側)
 三光門:太陽・月・星、三っの彫刻を施しているところからの由来。二羽の兎の中央に銀の三日月があります。太陽と星は比較的探しやすいです。

大黒天(大国)
三光門の入り口右に据えている燈籠に彫っている。インドの軍神大黒天と、日本の神である大国主命を併せたもので、民衆から現是利益を創った見本のようなものですが、神社も信仰の始まりを定かにはしていない。
安政年間に、大国講によって寄進されたもので、賭け事に願をかけたところ、勝負に勝った噂かららしい。
民衆は願いが叶うのならば、何でもしてしまう。賭けるを転化して砂までかけて「砂かけ」が「石のせ」にまで変わってしまったらしい。今では、大国様のほっぺに石を載せてお願い事をして、大きなえくぼが出来ている。はたして、このほっぺに石は載るのでしょうか。大勢の信仰を集めて、列を成す事もあるらしく、神社は否定もしなく、見守っているが、賽銭箱の中身は馬鹿にならないらしい。
 大宰府までお伴の牛さえも、神格化されて、この牛をさすり、自分の身体をさすると、その部分が良くなるという。仏教の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)と比べてもいいものか。

拝殿

もともと神社には、この様な建築物の歴史は無く、その技術様式は、殆んどが仏教建築であり、現在、これ等の本殿に、幾何学模様の、丸・三角・四角を正面に施しを見せている。
(三世を表し、手抜きの無い限りは、仏教建築には欠かせない)
 この北野聖廟が整った折から、現曼殊院(曼殊院別院として始まった)の、前身(延暦寺西塔)に住持していた、是算律師が菅家の出であったため、当神宮の別当職に任ぜられ、曼殊院が明治までこの職を続けられ、天満宮単一ではなかった。現在でも、時々マイクで、門跡さん社務所かで宜しくの声が聞こえる。

本殿

老松社
老松社(植林林業の神)・祭神・島田忠臣翁(しまだただおみおう)
 この方は、家臣とも、公の夫人の父君との伝えられ定かではない。忠臣であり、大宰府まで共をした。
公はこの人に松の実を持たせて、右近の馬場(現北野天満宮)植えつける様に託された。

文子社(拝殿西)
文子と近江の比良の神主親子と、この地に在った朝日寺の僧侶・最鎮を合祀っています。
文子に力を貸して、道真公をこの地に創建した人達です。

一之保神社・奇御魂神社(絵馬殿西奥)
一之保神社(いちのほじんじゃ)・菅原大神(道真公)神徳・学徳成就
奇御魂神社(くしみたまじんじゃ)・道真公の奇御魂・神徳・文芸・歌道上達
本殿に列を成して順番待ちで参拝(祈願)しているが、此処は何故か静で不思議でならない。
彩色豊かで、大きいほうが、あり難いのであろうか。
本殿の帰りにでも、念押しの祈願でもしてみたらどうでしょう。
 

 
 毎月の二十五日の縁日には全国から信者?が集まり境内をにぎあわす。神社、参拝者・商人の三方よしで始まったこの事が、現在では、露天商が出る日と勘違いか、本殿に参拝する人は少ない。それは、二十一日の弘法大師の縁日も同じ傾向を見せている。しかし、聖域に人々が集まることは良い事である。  
 昔は、全国各地からの北野詣でによって、信仰者があつまり、その帰りに、茶屋店「上七軒」をはじめ一帯の賑わいをみせた。それは、現在にまで見せています。この茶屋店「上七軒」が、芸者の発祥と聞かされている。
上七軒茶屋の由来


北野縁起


湯だく山・茶くれん寺


写真撮影・清耳眼・小耳眼・阿耳眼
  

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