世界文化遺産
北法相宗
音羽山・清水寺

音羽山清水寺・西門

音羽山清水寺=開山・賢心(延鎮僧都)は、奈良の小島寺(現子嶋寺・以前は西国観音霊場)の報恩大師の七番目の弟子と伝わる人で、名を賢心と云い、「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」と、霊夢によるお告げを受け、此処山城国愛宕郡八坂郷東山 (? 山科、現牛尾山)に縁を持ちました。宝亀九年(七七八)音羽の滝の畔で白髪の翁に巡りあい、草庵と一木を託された 。これが現在の奥院あたりと伝え聞き、翁は道教に長けた行叡居士という事で、まだ寺になっていない頃の話です。その後、坂上田村麻呂が妻の安産のために 自らの領地(? 山科、現牛尾山)である山に鹿の生き血を求めて登山して、賢心の読経を聞き、殺生、それを悔いて、妻の寝殿を移築してから、播州清水より勧請した、十一面千手千眼観世音菩薩を自ら刻み安置 。音羽の滝の清水を寺名して、私寺にしたのがこの寺の始まりです。田村麻呂と親友になった賢心は、この寺に住して延鎮と名を改め、田村麻呂が征夷大将軍の命を受けて、勝軍地蔵など清水寺の数々の奇瑞で、田村麻呂は蝦夷征伐をはたしました。桓武天皇の御不予にあたっても霊験をあらわし 、その功績を認められて、延鎮は内供奉十禅師の一人になり、また、寺領を賜わり、清水寺は田村麻呂の私寺から勅願寺と定められました。 寺としては、平安時代初期に成立しました。内供奉十禅師を勤め上げた延鎮は僧都に成ったのでしょう。以後、朝野を問わず観音霊場として信仰を集め、本尊は清水型観音として内外に知られています。
 当時、桓武天皇によって取り残された奈良仏教が平安仏教に対抗する拠点とされた清水寺であったのでしょう 。清水寺を圧倒する程の大寺、天台宗・清閑寺が、この後ろに在りましたが、現在は僅かに小堂を残して歌の中山・清閑寺の名を伝えています。奈良仏教の拠点清水寺は壮絶な攻防があって決して穏やかに成立した寺では有りませんでした。田村麻呂は賢心が、奈良僧である事を承知での交流。田村麻呂の父は恵美押勝の乱で功績で、その恩賞に不足を持っていた。その子を通しての反骨心も見え隠れしないでもない。 坂上家は渡来人と伝わるが、何よりも相馬と、調鷹で名を成した尚武の家柄であった。
 西国観音霊場十六番札所


本堂
本堂:江戸期・国宝・内々・内・外陣の三つに別け、内々陣には国宝三基の厨子、中央に本尊十一面千手観世音菩薩像・右に勝敵毘沙門天像、左に勝軍地蔵菩薩。その左右に分けて、風神・雷神・二十八部衆で三十体、本尊と脇侍にこれらを加えて三十三を安置する。高さ十一米の懸崖造りは地獄止めと云って、釘を使用していない。と云うよりも内部なら腐食も防げるが、風雨に晒される外部の釘の使用は耐久力は短く、釘を使用した建材は補修には新たな建材が必要なのである。その補修に手間や経費がかかる事を考慮して耐久力を持ったより良い建材を使用した匠たちの知恵であろう。 山肌の建築物は狭く、参拝者の為に懸崖造りで補うしか方法はない。外縁のために水はけを良くするように、傾斜をつけている。
 清水の舞台

奥院
奥の院:江戸期・重文・本尊:秘仏・三面(頭上二十四面)千手観音菩薩坐像(安阿弥様風)秘仏地蔵菩薩立像・秘仏毘沙門天立像風神・雷神・二十八部衆奥の千手堂と呼ばれる懸崖造で、本堂と同じ形式で三十三体を安置している。真言宗兼学の歴史があるので、弘法大師像も安置。南脇堂に、裏門と境内守護の夜叉神を祀っている。
「行叡から賢心が譲り受けた草庵はこの辺り」
 山科牛尾山に延鎮が行叡居士のために祀った牛尾観音で知られている清水の忘れられた奥院が在る事実があります。

地蔵院善光寺堂

地蔵院善光寺堂・本尊・如意輪観音

 この場所には六地蔵石造が小堂に祀られていて、奥の院の南にあった善光寺如来を此処に明治に安置合祀し地蔵院善光寺堂は二つのお堂の名を重ねたものです。中央には如意輪観世音坐像、左右に三光善光寺如来と地蔵菩薩立像。中央の観音は観音信仰の盛んな時に安置して、それからの本尊はこの観音様です。

 善光寺堂は地蔵院とも称していますが、この石造は地蔵ではありません。
祇園の幇間(タイコもち)で、名を鳥羽八と云う人気者がいました。旦那衆や芸者にも可愛がられて親しまれていました。この鳥羽八が扇子しか持たない手で普段の感謝を込めて座敷の合間の僅かな時間をさいて、こつこつと刻んだものです。首が回るのはお世話に成っている人達が住んでいる場所に向けて感謝するためのものです。これが評判になって芸者たちの御参りが始まり、想う人の住む場所に首を回して待ち人来る、恋の成就やらの願い事が込められるようになったのです。地蔵院の軒端に祀っています、清水寺の寛大な事。
馬駐(うまとどめ):室町期・重文
乗馬を許されたもの達が馬を繋ぐ屋舎で乗馬は許されない下乗である。
我国最古の厩であるという、さしずめ今で言えば公用車の専用駐車場でしょうか。
 明治末までこの向かいに子安塔が在った。
鐘楼:桃山期・重文
 極彩色で、各所に桃山期の華麗さが偲ばれる彫刻が施されている。
「四方ころび」という建築技法で、四隅の柱が、均等に中央に向って斜めになって強化させているのが特長です。

経堂

随求堂
経堂:江戸期・重文
背面を除いて全てを蔀戸を施していて開放的な建築で、密教には珍しい。
本尊は、釈迦三尊を安置して、一切経を納めていて、板張りの鏡天井には龍が睨みをきかせている。
随求堂
衆生の求願救済の随求菩薩(この様になさる菩薩の意で、菩薩名ではない)(江戸期)を本尊に、慈心院とも親しまれている。厨子内には毘沙門天立像(平安期・重文)、十一面観世音菩薩立像(平安期・重文)を納めている。

三重塔

鉄の大錫仗と鉄下駄
三重塔:江戸期・重文
 昭和六十二年に解体修理されました。
本尊は金剛界:木造漆箔大日如来坐像(東向き)安置。四天王円柱には密教仏画、内四面には真言八祖大師。
 この横に平家の侍大将悪七兵衛景清・爪形観音が燈篭の火袋の中に在ります。「景清守り本尊観世音菩薩」の石碑が建って教えてくれています。頼朝を討ち果たす、一途な思いで、隠れ棲んだ時に、思いを果たす願をかけながら、爪で彫ったというものらしい。
 もう一つ西門の横に宝篋印塔が在る、清水寺の大壇越の物語の始まりの標である鹿間塚、今は、見る人もないらしいが、探してみますか。
鉄の大錫仗と鉄下駄
ガイドが修学旅行の生徒に弁慶の物であるとよく聞く話がある。鍛冶屋が仕事中、目に鉄片が刺さり失明を観音力により助けられたお礼に奉納したものとも、「日の出饅頭 辻畠○○ 奥村長○郎」の銘がある。
所説あり。

普門閣・中門
普門閣・中門(轟門):江戸期・重文
三間一戸の八脚門、左右に持国天・増長天(平安期)を祀る観世音菩薩の普く門である。前の石橋を轟橋と称し、民間信仰の歯痛・頭痛の平静信仰がある。

開山堂

法華三昧堂
開山堂:江戸期・重文
大檀越坂上田村麻呂・行叡居士・延鎮僧都等を安置。
法華三昧堂:江戸期・重文
越前の雄、朝倉貞景(さだかげ)が寄進した事から朝倉堂ともいう。
本願院(成就院)の住職になった時宗の勧進聖願阿弥は、清水の再建に尽くした人で、貞景が天文十九年(一五五〇)に、願阿弥に寄進したもので、本堂と同じ舞台造であったという。
仏足石
 朝倉堂の東に位置するところに、擦り減っているが紋様が残る、釈迦供養信仰の原型である仏足石がある。
 面白い事に、弁慶や悪七兵衛影清の足型との話もあり、この寺の南に影清が幽閉された牢の谷がある。話は一度作られると手に負えない見本のような石です。
釈迦堂:江戸期・重文
本尊釈迦如来坐像(平安時代)
昭和四七年に崖崩れで倒壊したが同五十年に復旧した。
阿弥陀堂:江戸期・重文
 本尊丈六阿弥陀如来坐像(江戸期)と、伝観音菩薩・伝勢至菩薩・法然上人像を安置。京都六阿弥陀信仰の内の阿弥陀様、昔は滝上寺といい、法然上人の霊場になっています。
 この阿弥陀堂は、文治四年(1188)、清水寺大勧進紗彌印蔵(しゃみいんぞう)の発願で、法然上人が常行念仏を修された始めての場所です。堂内には中心に阿弥陀如来像、左脇に法然上人像が安置されて、後柏原天皇の勅額「日本最初常行念仏道場」が掲げられている。

地主神社
地主神社(独立)
 この神社の年代は定かではないが、清水寺よりも古い年代であることは間違いない。中国の八神信仰の一つである地主であろうが、その事は云っていない。総門・拝殿・本殿共に重要文化財である。境内には恋占いの石が間隔をあけて据えていて、目を閉じて一方の石にたどり着いたら恋が成就すると云う。境内の奥に丑三つ時の呪いの藁人形を打った釘跡が残る老木が在ります。古来より心願成就の「丑の刻詣」でも知られている神社でもあったのですが、「高おかみの神」は国土豊潤のために丑年丑月丑日丑刻に降臨されたとする伝承故事によるもので、世のあらゆる心願成就をはたすのが「丑の刻(午前二時)詣」であり、国土豊潤・心願成就の神で、呪詛が目的のものではありません。
音羽の滝
 不動明王を祀り、絶えることのない滝、清水寺の名は此処より由来している。此処に落ちる滝ノ水を延命水として不老長寿・無病息災の信仰を集め、早朝・深夜に祈願者が滝に打たれに来る。今日では清水寺の看板の一つにも成っているが、民衆の希望から生まれた三筋に成った滝で、不動明王の滝に打たれて修行をするところです。
清水寺の民衆に対して寛大な事。

野々村仁清・尾形乾山の碑

行叡居士石像・伝福禄寿
  野々村仁清・尾形乾山の碑・子安の塔に行く道にこの碑が建って、奥が野々村仁清です。仁清は京の仁和寺辺りで金森宗和の指導を受けて窯を開いた人で、清水寺の少し上の場所に在る清閑寺の僧を師として焼き物を学んでいる、仁和寺の仁と清閑寺の清を取って名したと想われ通称、清右衛門も清閑寺に関係しているものと思う。尾形乾山は同じ仁和寺辺りに住んで京から乾の方角にあたる事から乾山を名乗ったと聞く。仁清の絵付けなども手伝いながら、自らも窯を開き焼いた。京の焼き物は奈良朝から窯を開いていた清閑寺を除いては語れないものがある。
行叡居士石像・伝福禄寿・道教に長けていた行叡居士、この石造はそのせいも有ってか道教の神福禄寿と伝えられるようになったと思っている、この寺自体も道教を除いては語れない部分が多い。伝が付けばその責任は今語るものには無い、伝え聞いただけの話である。
 

子安の塔(泰産寺)
子安の塔(泰産寺):江戸期・重文
 明治の末までは、清水寺の入口辺りの泰産寺に在った塔で、境内整備のために現在の地に移された。光明皇后が寄進建立した説と、田村麻呂の女(むすめ)が、と説はあるが、何れの願も安産・誕生であったところから、安産祈願の信仰がはじまり、いつしか子安観音として女人の信仰を集めている。祈願のために通った坂が、産寧坂という。

本堂舞台から見た風景
本堂舞台から見た風景
 中央に小さく見えるのが子安の塔、小さな塔ですから、より遠く見えて距離は感じほどは遠くないが、拝観者の一部しか訪れない。此処から清水寺全景が拝見できる。

子安の塔(泰産寺)から清水寺全景

成就院(清水寺本坊)

春日社右後方の石仏群
 この成就院の庭が月の庭で、雪の庭(妙満寺)、花の庭は北野辺りにあったが消滅しています。ちなみに、この三庭はどれも成就院と云う名の院にあり、歌人・俳人、松永貞徳の作庭と云われています。
 春日神社の後方に在る石仏群が遥か昔の清水の舞台下を物語っている。
 
拝観時間:
6001800 夏季6001830 大人・高校共300 小中200団割なし
車椅子拝観可・介添人無料連絡要
〒605−0862 
京都市東山区清水1丁目 
TEL 0755511234 
市バス清水道または五条坂・京阪五条駅
 
 延鎮は奈良から送り出されて、奈良僧の面影を消すことなく、清水寺と小島寺の兼務として住職も勤めたた事で尚一層にそれを色濃くして、平安京以来の史実に出てこない理由が窺えそうな気がするが、延鎮は目的と知る自分の役目は充分に果たして、現代の我々の知るところである。
 しかし清水以外史実には残らないと云われながら、その功績は、西の清水(楊谷寺)の開基として、第二代目には空海と記されています。(平安仏教・真言宗とされているが、空海は完全な奈良僧で中国での莫大な資金は、奈良の期待からの資金である。その資金によって空海は密教に必要なものを我国に持ち帰った。空海は桓武天皇に置き去りにされた奈良仏教の期待の星であり、平安京においてその実力を見せ付け、当たり障りのない高野山を択び、寺領を得て真言宗の聖地となっている)。今も清水寺は奈良仏教の六宗(りくしゅう)の一つ法相宗(心理学)を継承している。
 魚釣りはヘラ鮒に始まり、ヘラ鮒に終わると諺が有ります、清水寺といえば修学旅行の定番のように言われていますが、正に諺どおり最後に清水に終わると言っても過言では無いほど深い物が有り、調べる楽しみをお持ちの方には一日では無理なほどのものがあります。日本三清水と云われていますが、さて最終にはどの清水寺に止めを刺して、いきあたるでしょう。


写真撮影・清耳眼
    


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