| 浄土宗西山派総本山 | |
| 粟生光明寺 | |
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長岡京、西山のふもと総本山光明寺のある粟生広谷の地は、宗祖円光大師法然上人が御年四十三歳の時、日本で最初に念仏のうぶ声をあげられた立教開宗発祥の地である。 法然上人は廿四歳の春、叡山を下り求法の為に、嵯峨清涼寺に一週間参籠され、そこから奈良へ学匠をたずねて向われる途中、ここ粟生野の里の庄屋高橋茂右衛門宅に一夜の宿をおかりになった。その時、宿の夫婦は上人の真剣な求法の志と、広く凡夫の救われる道を求めんが為の旅であるという事を聞いて「まことの教えを見出されましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願い致しました。かくして承安五年(1175)春三月ついに法然上人は浄土宗を開かれた。広く説法に回られるに先立ち二十年前の粟生の庄屋夫婦との約束を思い出されて、先ずこの地に来られ、はじめて念仏のうぶ声をあげられたのである。 |
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![]() 境内参道 |
![]() 御影堂 |
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当本山は建久九年(1198)にかの源平の戦いで有名な熊谷蓮生法師(熊谷直実)によって創立され、法然上人を開山第一世と仰ぐ。蓮生法師は建久四年三月、積る罪業をつぐない後生菩提の道を求めて吉水の御庵室(安養寺)に法然上人を訪ねた時、「どんなに罪が深かろうと念仏さえ一心に申せば必ず救われるのだよ」と、あまりにも有難いみ教えを受けて歓喜し、直ちにお弟子になり剃髪し、法力房蓮生と名づけられ、数年の間上人につかえて教えを受け、ひたすらお念仏を喜ばれた。しかし吉水の地は馬車の音がやかましく、人の往来がはげしいので、もっと静かな所で余生を念仏三昧に送りたいとの念願から、上人ゆかりの地である粟生広谷の里に寺を建て、江州堅田の浮御堂千体仏の中尊仏である丈六の阿弥陀如来像(恵心僧都作)を迎えて御本尊となし、法然上人を屈請して入仏落慶法要を営なみ、開山第一世と仰いで、自らは第二世となった。その時上人から「念仏三昧院」の寺号を頂いた。この念仏三昧院こそが光明寺の前身なのである。 第三世幸阿上人の代の建歴二年(1212)正月廿五日に法然上人は八十歳でご入滅になった。 |
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| 上人は晩年に奈良、叡山の古い仏教宗団からの迫害を受けられたが、彼らの仕打ちは上人滅後にも及び、嘉禄三年(1227)六月叡山の衆徒が大谷の墳墓をあばいてご遺骸を鴨川へ流そうと企てたので、上人の遺弟達はひそかに相談して石棺を嵯峨に移し、更に太秦の広隆寺へと移した。あくる安貞二年正月二十日の夜、地ふるいて上人の石棺より数条の光明が放たれ、南西方向にある粟生野を照らすという不思議な事があったので、同月廿五日石棺を広隆寺より当所に移し荼毘に付し、寺の裏山に御芳骨を納めて廟堂を建てた。 | |
![]() 勅使門 |
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この時の光明の奇瑞にちなんで、仁治三年(1242)正月九日四条天皇から「光明寺」の寺額を賜ったので、念仏三昧院の寺号はこれ以後光明寺と改めた。 そして永禄六年(1563)三月十日正親町天皇から「法然上人の遺廟光明寺は浄土門根本之地と謂っ可し」との綸旨をたまわった。当山が「浄土一宗の御本廟」と定められ、「浄土門根本之地」と云われるのはかかる因縁によるものである。 |
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![]() 信楽庭(しんぎょうてい) |
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| 信楽庭・二河白道 勅使門内の前に広がる、白砂に大小十八個の岩を配した美しい庭。弥陀三尊をはるかに仰ぎつつ、一人の行者が生死の大海をわたる姿を表現している。 |
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| 秋の光明寺、言葉は要らない | |
拝観時間:9:30〜16:30・境内自由拝観 (長年の間、自由拝観でしたが秋のみ500円) 有料期間:平成15年十一月1日〜12月7日まで:大人500(団400)・小中学生300・団体30名以上 車椅子拝観境内可(堂内は背負って行って上げて下さい) 〒617−0811 京都府長岡市粟生西条ノ内26−1 JR長岡駅より阪急バス光明寺・阪急電車長岡駅より光明寺 |
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