| 大徳寺塔頭 | |
| 高桐院 | |
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| 慶長七年(1602)細川忠興(三斎)が父幽斎の菩提を弔うために玉甫を開山にして創建した大徳寺本坊西に位置する院です。院内には意北軒(いほくけん)と称した利休居士の私室が移築されている。その西に露地庭があり、飛び石と植栽が山坂遠路を感じさせ二畳台目の茶室松向軒に至っている。松向軒は秀吉が聚楽第落成を記念して開いた北野大茶会の折に三斎公が建てた茶室で後に移築したもの。茶室の名の由来は北野天満宮境内にある菅公影向(ようごう)の松の元に建てた事によると言う。利休居士の私室も、この松向軒も墨壁(イカ墨)が施してあり農家の煤を想わせるのか、又、壁の淵に雨漏りの跡さえ感じさす遊びが見られる。室を暗くするのは利休好みか、外の光も味わえるが、想うに老いを隠す優しさと、贅の衣装を無視する厳しさも感じ取れる。三斎公は利休の弟子ではあるが大名茶の完成者でもあり綺麗寂(きれいさび)も好んだ。方丈の部屋には、その綺麗寂の茶室が設えてあり、方丈庭園を拝するには最適の場所になっている。その庭園に在る燈篭の対が庭園の西奥にも在る。利休居士は秀吉が所望した灯篭を天下人に似合わぬと、自らが傷物にしてまで断ったものを、後に金毛閣の件で堺に下がる折に形見として三斎公に渡し、利を休め賢さを隠せよと名付けた思いも虚しく、天下人を相手に果ててしまった。忠興は、その燈篭を参勤交代の道中にまで持ち歩いたり、利休が欠いた事から別名「欠け燈篭」と言われたが、後に忠興自ら火袋の淵を欠いて、それをもって「欠け燈篭」と云わせた。また天下に知られた燈篭であるが故に、自分の死後の燈篭を誰にも渡さないために、自分とガラシャ夫人の歯を埋めて墓にしてしまった事は、三斎公の性格を偲ばせる話であろう。 | |
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| 境内参道は行の敷石、禅宗に良く見られる歩き辛い敷石である。如何に感じるか、問答の始まりです。 袈裟形の手水鉢「(下り蹲踞)基礎石」加藤清正が朝鮮より持ち帰った物を忠興に進呈したと伝えられる。 |
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| 「意北軒(いほくけん)」千宗易(利休居士)の空間 朝鮮の農家を手本に茶室を好んで造る宗易の趣向が此処にも見られる。 イカ墨壁で煤を想わせて、その壁には雨漏りの遊びや、板張りの痕を見せて、外の光も一層に味わえる様になっている。 |
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| 対灯篭・天下一の灯篭は墓により写真はひかえています。 宗易の形見、天下無双の灯篭が庭の奥に忠興・ガラシャ夫人の墓として残されているが、庭に有る此れは対の灯篭で、笠の裏を欠いて同じように設えている。 草の庭であろうが、想わせるものは真の庭に負けない。方丈の西奥が大名茶も好んだ三斎公好み、綺麗寂びの茶席が在ります。 有名女優が、この寺で結婚式を行い、此処にくるたびに、一番好きであると言う、この場所に座るらしい。機会があれば写真を入れたいと思いますが、拝観者が感動割れしないように、新鮮味を残すために控えています。修行ではなく、庭を味わうには、我が身を出来るだけ奥に置き、拝するには、この席が理想的です。付け書院の明かり戸の開閉の間隔で、一幅の軸を味わうもよし、床の間を背に、位置をずらして、柱をを利用して方丈庭園を味わうもよし。 身を置く感覚は最高であり、かつ初心者が味わうこつをつかみ、何処でも味わえるようになる事を教えてくれる場所です。修行者は縁側に、拝観者は明るくない奥に身を置く。 |
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更新中 |
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拝観時間:9:00〜16:30 (5/6・6/7〜6/8法要為休み) 大人・高校共400・中学300・小学200 団体30名以上・大人高校共360・小中学謝絶 車椅子拝観(廊下のみ可・介添人要) 〒603−8231 住所・京都市北区紫野大徳寺町73−1 TEL 075−492−0068 市バス大徳寺前または建勲神社前 |
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写真撮影・清耳眼 |
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