天台宗
曼殊院・竹の内門跡
 曼殊院の表門である山門が勅使の門を兼ねている。ここ曼殊院はもと東尾坊と称して、八世紀に比叡山の西塔北谷に最澄が草創した事に始まる。当院は歴代、明治まで北野天満宮の別当職を兼務して、その訳は、曼殊院歴代住持、その内の御一人、是算律師が菅家の出であったため、別当職の勅命が下ったのです。この一乗寺の地での始まりは北野別当職ため便利上、曼殊院別院を建立した事による。金閣寺、相国寺の辺りりと、移転を繰り返し、元の一乗寺の地に帰られた良尚法親王は桂宮智仁親王の御次男であり、又、後水尾天皇の猶子でもある。院内は、いたる所に良尚法親王 「天台座主(第百七十五代)」の見識の深さがあらわれ、又、財力では及ばないまでも父君の桂離宮の趣向に対向しているものがあります。

勅使門
  秋の外壁

拝観口(通用門)

庫裡(拝観口)・媚竈(びそう)
庫裏(重要文化財)拝観の出入り口を兼ねている現在の通用口。
庫裏の入り口にある 媚竈の額は、良尚法親王の直筆を刻したもで、論語の一部「その奥に媚びんよりは、むしろ竈に媚びよ」から、見栄を張って生きるよりも、命の元を考えなさい・・・・でしょうか?、徳川幕府に対して経済に力を入れて奥向きに口を挟むなか?。

当院最古・大黒天

中国聖賢の図・御所寝殿の写し
大黒天・庫裡に入って正面に祀られている当院最古のもの、踏み下げの坐で、軍神姿・大黒天本来のお姿。
マハーカラには大黒の意味は含まれないが、中国において寺院の台所に食物を司る神として祀られ、油にて磨いていたら黒くなって、大黒として日本に紹介された。世界を破壊(再生)するシバ神が、その実行をするときの姿です。
中国聖賢の図・狩野国信筆・諸葛孔明ら中国の賢者の姿を画いたもの、庫裡から院の中に入る直ぐの所に置いています。

竹の間

孔雀の間(岸駒の襖絵)
竹の間・江戸期の版画で、竹を題材にしている。竹ノ内門跡のこだわりか。
岸駒の襖絵・孔雀の絵を用いて、母親と幼年の時代から死に至るまでを表しています。この向の左右へと続きます。孔雀を用いたのは、晴れやかを表し、いかなる人生であろうとも死に至る事への心構えを云っているようです。中央には須弥壇、一光如来三尊(善光寺型)を祀っています。

虎の間

虎の間(重要文化財)正面大玄関の間にある襖絵が虎であるところから虎の間。伝狩野永徳筆、当時まだ虎の姿が伝わらず、文献その類を参考にしたために異なる部分が見られる。奥の間は穏やかに、表には威厳を示す絵を見せる。拝観口を改修中には、正面からの拝観になり、この間を通って、まじかに鑑賞できたが、現在はお止めが在り、この部屋 には入ることが出来ない・・と、言うか、何時の日か拝観口の修復でもない限りこの間は通ることは出来ないでしょう。 現在はこだわっていないかもしれないが、金箔のはり方は、基本的には湿気や乾燥に応じて、金箔のサイズが異なる。京都は湿気が強く、収縮が激しいために、亀裂を防ぐため、金箔一枚のサイズは、関東や他の地方よりも、小さくしている傾向があると思う。


滝ノ間
滝ノ間・床の間には滝の絵が在ったようです。中央には法華塔、左右に掛けているのは、心構えの対に成っている言葉です。「ぎは、らんぽうのごとし」・「きは、しらんのごとし」、鶯鳳は想像の鳥ですが、姿、声に最高のものを持っていると云いますが、対人は己の最高をもって接しなさいでしょうか。芝蘭は紫蘭とも云いますが、可愛くて姿良く、しかし匂いが控え目である。
 このまま後ろを見ると、両脇に狩野探幽の襖絵があり、中央に庭が見れます。全てが座っした目線にあわせていますから必ず座るようにお勧めいたします。数寸の違いが大きく変わります。左右の襖絵は逆遠近法を用いた絵です。一番解りやすいのは、座って左に碁をさす翁が画かれている碁盤を見てください。座る位置で四角、長方形に変わりますが 、坐る場所をかえて見て下さい。歩いて確かめる事は控える事をお勧めいたします。此処の趣向に負けてしまいます。そのまま正面を見て、中央の上に在る明かり障子は天候が好ければ外の色を拾い此処に写します。緑葉ならば青色、霧島躑躅が咲けば嬉しい色を拾い写すでしょう。
(障子の中央横の延びる影の上に注目)

十雪の間(仏間)
十雪の間・滝ノ間に続いてあります。
欄間は卍崩し、写真中央が桂棚、仏間の左右に親子の軸、中央に香時計。
仏間・本尊、阿弥陀如来立像を安置、諸仏を祀っています。(北野の観世音菩薩も在ります)

鶴島と大書院の縁
  鶴島は、樹齢四百年の五葉の松からなり、根元に近い所から鶴の羽を表す枝が左右に二本出ていたが、今は台風で折れて一本しか見られない。この写真は羽のある方から撮影。あきらかな場所に据えるはずの燈籠、鶴島の根元の所に曼殊院燈籠が据えてある。キリシタンであった母からの贈り物、「キリシタン燈籠・想いは敬愛していたガラシャ婦人か」が世を忍ぶようにして在る。多くは語らず、ここではあえて忍ばせておきます。手前の西側には霧島つづじが五月には見事に映え、大書院からの眺めに趣をそえる。
 この庭の作庭者ははっきりとはさせていない。遠州好みの庭とされ、桂別荘の作庭奉行も務めた遠州公の心の写しを表しているのであろう。曼殊院庭は、ここからが桂別荘の静に対して、動での挑みが始まる。

曼殊院事情

亀島と奥書院(小書院)
亀島・松を甲羅にして、その下手前に見えるのが亀頭石で、各手足、尾に見立てた石を立ている。
亀の甲羅を表している松は、戦後の混乱で手入れをおこったって、伸びてしまっているが、以前は地を這うようにしていたと言います。蓬莱山を背負う亀 の甲羅と、その蓬莱山を松で二義を表しています。
小書院・縁側の東角と柱を離して、此処から見た縁の向こう端は、船の「舳先」と教えて、この建物全体を蓬莱行きの船に仕立てています。床下を低くして東山から流れ出る水に対して勢いを表しているように見えます。欄干はその雅を表して、この庭は一つ一つ配しているもので遊びを見せていて、これが解るか ?と心遊びしているかのようである。 仏教寺院ではあるが、神仙思想(道教)を取り込んでいるのは、この寺院だけではなく、注意してみれば中国思想が色濃く各所に点在している。

屋形船型

梟の手水鉢
 屋形船型・小書院の縁側と廊下に屋形船でも現す様に屋根型を設えていて、これら全体の遊び心が見えてきます。

梟の手水鉢・梟を陽刻しているところからの名称ですが、この手水鉢を背負っているのは亀で、その後ろに鶴石を配しています。この鶴石は船に寄り添いながらついて来てる亀の勢い、水跡に も見立て、東山から流れ出る水に向かって進んでいるこの船の勢いも感じさせています。夜行性の梟を伴い暗黒の不安を解消させ、見果てぬ希望の場所へと進んでいる。
(鶴亀が二式ある庭です)また、この手水鉢は手が届かず、本来の手水鉢の役目では配してはいません。少し手水鉢を傾かせ、月を落として天井や壁に取り込み、此処にも雅な遊びを見せています。「西の桂別荘と一味違う月を味合う趣向が見える」


黄昏の間
黄昏の間・昔、昼は明かりはつけません。現在でも天気が好ければ、この二畳の上段からは、何時でも黄昏時を味わえる様にして、黄昏の間と称したのでしょか。壁には農家の煤を思わし、壁のふちには雨だれのにじむ遊びも見せて、上段の変形の玉座、此処に座って外を見れば光が浮いて見えます。左に見える曼殊院棚は十余りの種類の木を使っています。この二畳の上段を世の風に吹かれている不安定な一枚の「 蓮葉・はちすば」 に、たとえて、また、露にたとえた我が身を其処に置き、いつ何時でも黄昏の後、はちすばより、こぼれ落ちるその先を覚悟していたのでしょうか。 「はちすばに おく露よりも はかなきは 人の命よ 南無阿弥陀仏」 
 此処には入れません。(富士の間から撮影)

富士型の釘隠し

欄間
富士の間・釘隠しに富士の型を用いて、雲を七宝であらわしているところから、このようによばれ、釘隠しの全て雲の位置を変えている。この部屋の明かり障子にも外の色を写し取る意匠がある。壁には雨水がにじんだ侘び寂び特有の遊びが見られるが、全体的には綺麗寂びであろう。襖絵は探幽の筆で、入り口には松花堂昭乗筆による(閑静亭)の額が掛かる。
欄間・元禄模様のはしりをなす表裏の菊型紋と切紋。
(元禄模様・小柄の模様で弁慶縞・市松模様等)

富士の間から築山と滝口
 富士の間で、黄昏の間を背に庭を見れば、少しは上段の変形玉座からの味わいに近いものを感じます。
石塔を建てた築山、滝口から見せる石橋からの水の流れ、それを水分け石が受け止めて二つに割り流す。そこから大きく広がり、分かれた水を逢わせて大海を思わしながらこの船を進ませている。水分け石から此方は現世を表して、大波小波を表す皐月の刈り込み、その波に揺られている事を表す趣向が、外塀を斜めに、石橋の両脇に長短の石を立て、遠近法を用いて、この船が大波小波に揺れている事をこの石橋に隠されています。
現場を訪れた時に石橋だけに集中して、感性を研ぎ澄まし御覧ください。

上之台所

寺宝の一つに国宝・青不動画像があるが、日本三不動の一つ、三井寺の黄不動の写しが国宝であるのが珍しい。

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拝観時間:9:00〜16:30 
大人500(団450)・高校400(団同じ)・小中学300(団同じ)団体30名以上
学生引率者無料・車椅子拝観可(介添人要)身障者300・介添人1名無料
八窓軒茶室1000円(予約要8名まで)
〒606−8134 京都市左京区一乗寺竹の内町42 
TEL075−781−5010
市バス・京都バス一乗寺清水町



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