| 曹洞宗 |
| 六六山・丈山寺 |
| 詩仙堂 |
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石川丈山の家柄は、天正十三年(1583)現在ノ安城市(三河国碧海郡泉郷)、徳川譜代の武士の子として生まれ、十六歳で家康の近侍となり、松平正綱、本多正勝らの親類筋でこの地方では名門であった。 しかし、大阪の陣で軍律を破って主人の家康の元を離れるが、出陣の時に一番手柄をたてる約束を母親と師に約束をしての事で、丈山の人柄が偲ばれる。 その後、憂いの母を見て親孝行のために広島に仕官するが、母親が死去すると武士を捨てて京に入り文化人との交流をはじめる。多くの功績を残して、丈山九十歳寛文十二年(1672)詩仙堂で生涯を終えた。 凹凸な場所であってそれ程環境の好い所ではありませんよと控え目に知らしめ、草庵を思わす門構えで山茶花の木がその門を一層に小さく錆びて見せている。 歌仙堂を手本にした詩仙堂、中国の漢・普・唐・宋・の詩人三十六人を選び狩野探幽に肖像画を描かせて、丈山が各詩人の詩を直筆して四方に掲げた部屋が詩仙堂、正式には六六山・丈山寺云う。 |
![]() 老梅関 |
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最初は大胆な飛び石、あとは優しく敷石で導いている。 |
![]() 嘯月楼 |
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建物は詩仙の間、至楽巣(猟芸巣)、躍蒙巣の三室と階上の嘯月楼からなり、詩仙の間に漢、晋、唐、宗の詩人三十六人と夫々の詩を選んで絵は狩野探幽、尚信、詩は石川丈山自ら墨書し額にし掲げて、詩仙堂は此処である。 詩仙堂は、木下家定の嫡男で若狭藩主だった木下長嘯子(ちょうしょうし)が東山に建てた歌仙堂(現円徳院内)を手本したのか、対向して中国の漢詩を択んだのか。京の三仙堂「歌仙堂、詩仙堂、中国より移築した白川畔に画(雅)仙堂」を言うが、素直に手本にしたのであろう。木下長嘯子の様に曝け出した心境で嘯く(五義・内・詩歌を口ずさむ・とぼけて知らん顔をする)様に、何れにしてもその時代に翻弄されず嘯いて生きていたのであろう。 この嘯月楼の位置からは重要な京の要衝は見えるのです。 ちなみに、三十六撰は歌に始まり、三十六歌仙の三十六は藤原公任の撰に始まり、我国特有の物である。 |
![]() 庭園への道 |
| この道を通らずとも寺内から庭園には降りる事が出来るが、二度三度と訪れる人は良く使う道である。 |
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| 四季折々の顔が飽きさす事がない庭。興を冷ます様であるが、荒れ果てたものを再興した庭で、石川丈山の作庭には程遠い物であろうが、それを偲ばす事には不足は感じない。 拝観の折には、この写真の位置より少し後から、視野を通して柱を多様に生かして味わってください。少し余分に貴方を留まらせるでしょう。 |
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丈山遺愛の山茶花の巨木初冬から白い花を咲かせ、その後は地面にもう一度咲かせる嬉しさがある。紅葉も深紅ではなく黄色に程よく混じりような紅が京好みの紅葉で、奈良時代の黄色好みを捨てていない観を何となく感じさす。 |
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![]() 猪追い(添水) |
| 文化人の丈山、階上の嘯月楼からの視野は広い、文化人、それを装いながらも別の顔もあっ事は充分に想像ができる。心を許し信じられる者達と、そうではない者達との総合交流を隔てたり拒否をすれば有らぬ疑いがかかるであろう。この添水は、その様な交流の折に、止めるか、鳴らすかで会話の内容に制限をもたす合図に・・・・・このような想像には至らないであろうか。 |
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![]() 残月軒 |
丈山在命の折りは私寺の観が私の中から抜けきれない。密教を採り入れた曹洞宗の末寺に成った今も寺観を通して変らない。寺として見るならば道教の色は払拭出来ないであろう。晩年の丈山、住職の色は無く、翁の棲家の跡が色濃く残っている遺構であろうか。 |
拝観時間:9:00〜17:00 5/23休み・大人500・高校400・小中学200 30名以上団体謝絶(団割なし)・車椅子拝観一部可介添人要・身障者半額 〒606−8154 京都市左京区一乗寺門口町27 TEL 075−781−2957 市バス・京都バス一乗寺下り松町 |
写真撮影・清耳眼 |
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