天台宗
小塩山大原院
勝持寺

仁王門
仁王門:応仁の乱での兵火による焼失を免れて平安初期仁寿の遺構をを残している。
阿吽の仁王二体は瑠璃光殿に安置されている。

この寺は、加茂役君小角(かもえだちのきみおづぬ)(役行者)が開基、最澄が再建したと伝わり、創建は平安遷都以前である事は間違いないらしい。
足利尊氏が六波羅攻めの折に「勝持の幡」を奉じてより足利幕府の庇護の下で寺は興隆したが応仁の乱では幕府の財政難を止む無きして寺も運命を共にして衰退した。その後、天正年間に青蓮院宮、江戸期には桂昌院が復興に助力して堂宇は維持されてきた。
 
 本尊薬師如来の胎内仏(五寸薬師小像)金剛力士像二体、小野道風筆の額「勝持寺」他、世に知られている寺宝がある。
「願徳寺の本尊如意輪観世音菩薩(国宝)は近年まで勝持寺の客仏として安置していましが、現在では隣の願徳寺で拝観出来ます」

山門への白壁
山門:僅かな間ではあるが城郭の雰囲気を感じさす。自動車の方は仁王門からの、この参道は通らない。
本堂:茅葺の庫裏を通って小庵を想わす潜り門を過ぎた所に在ります。本堂正面から上って瑠璃光殿に至ります。瑠璃光殿は宝物保護のために近代建築になっていますが中は古の世界が変らずに在ります。

西行桜跡
西行桜:現在三代目の西行桜です。「花見んとむれつつ人のくるのみぞあたらさくらのとがにはありける」、世に花とは桜を指し、法師が在住の時から知られていた桜であった事が窺われる、「多くの人が訪れて静けさを破られた」と一首が残っています。早くから桜の下で死にたいと願望して、衰弱した身体で季節を待ち、河内国の弘川寺で思いを遂げて死去したその精神力には頭が下がる。

  勝持寺が花の寺と呼ばれだしたのは細川幽斎が元亀二年(1571)桜の下で連歌会を催してからであると言うが、桜をこよなく慈しんだ西行が剃髪した寺でもあり、在住中に花見客が多くて静に出来ないと、西行の一首が有り、西行が植えた桜は当時から在った様で、よく似合う名称であると思う。今は意識して桜木、紅葉を多く植栽して名の通に季節には花の寺として多くの観光客を迎えている。


不動堂
不動堂:不動明王と愛染明王を安置。弘法大師空海が病魔退散の祈願を籠めて石で彫った不動明王で昔から信仰を集めています。

鏡石と姿見池
鏡石:佐藤義清が勝持寺で剃髪した時に鏡代わりにしたと伝わる石です。義清は藤原秀郷(俵籐太)の六代の孫になるという人で、鳥羽上皇に仕えた北面武士。二十三歳で出家して法号円位、修行のため行脚する事を「西行する」といい、歌僧西行法師で知られている。崇徳天皇と上皇の板挟みで苦悩して出家したのかと、然し、「なんとなく芹と聞くこそあはれなれ摘みけん人の心知られて」この歌で別の苦悩かも知れない事が窺える。「芹摘む人」は高貴な人に叶わぬ恋をする意味。鳥羽天皇の中宮待賢門院が死去された時に「紅葉みて君が袂やしぐるらむ昔の秋の色をしたひて」を残している。
 出家した事で円位(西行)は延命した事は間違いない。でなければ、哀れな内乱でその後に才を発揮する事はなかったでろうと思う。

魚藍観音
魚藍観音(ぎょらん)三十三観音は一般に知られているお姿は僅かで、その内の一。観音浄土を模した池泉の中央に立っています。この観音は普通は漁師などの信仰が集められている。

拝観時間:
9001630
大人400(団350)高校300(団同じ)・小学200(不可)小学以下は保護者同伴のみ
学生引率者無料・車椅子拝観(一部可・介添人要)・「身障者・介添人1名まで200
6101153 京都市西京区大原野南春日町1192 
TEL075
3310601 
市バス・京都交通バス・阪急バス南春日町


写真撮影・小耳眼
      


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