大原問答・大原寺
魚山・勝林院

本堂証拠堂
 大原寺は円仁が中国から学んだ声明を広めるために承和二年(835)に建立した事によるという。長和二年(1013)に源時叙入道が再興した際に勝林院と改め、天台談義所になった。叡山の覚超(かくちょう)と偏救(へんく)が空、不空を論じ合った時に、本尊阿弥陀如来が中道実相の本意を顕し、又、法然上人と南都北嶺(奈良興福寺・叡山延暦寺)の高僧が浄土教について論議された時に、本尊の手より光明を放ち念仏救済の証拠を示した事により、一同が阿弥陀一仏何不足あろうと云って、カミソリ法然には手も足も出なかった。
それらの所以で、本尊は証拠の阿弥陀、本堂は証拠堂とも称されています。
 魚山は中国五台山の声明の中心地であった地名に因んだものです。下院魚山勝林院と、上院来迎院(三尊院)で太原(たいゆわん)の都にちなんで魚山・大原寺(だいげんじ)と総称したのが、現在の大原の地名になっています。


御本尊:証拠阿弥陀如来
 この御本尊の御手から五色に分けた布紐が垂れています。此れを善の綱と云って、この善の綱に触れる者は阿弥陀への結縁を得るといいます。

法然上人坐像
勢至丸と呼ばれた幼年期から叡山入山まで

  法然上人は、1133年(長承二)美作国久米南条稲岡庄(みまさかのくにくめなんじょういなおかのしょう)現・岡山県久米郡久米南町誕生寺808で父・稲岡庄の押領使・漆間時国(うるまときくに)母・秦の君の一人子としてご誕生された。子に恵まれなかった夫婦は観世音菩薩に願をかけて授かったという。幼名を勢至丸と名付けて漆間家は安泰を見たが、明石源内武者定明(あかしげんないむしゃさだあきら)の妬みから因る夜襲にかけられて父を失う、父の臨終の折の遺言にて人を恨む事を戒められ、仏道に入ることを薦めて勢至丸の安らぎの人生を望んだ。母の弟である漆間家菩提寺の住持・観覚得業上人(かんがくとくごう)のもとで六年間の修行をするが、叔父に当たる観覚得業上人に比叡山延暦寺での修行を薦められて母に別れを告げて入山する。
 以後山内にカミソリ法然、智慧第一と轟かすまでに至る。


本堂から極楽橋
 葬儀の時は入り口にある来迎橋外側にお棺を安置し、白い綱を棺まで伸ばし綱先を棺上に垂らすと阿弥陀如来に来迎されると云います。
 
極楽橋から本堂えの細い道は、まさに二河白道です。

勝林院入り口に
 法然上人がこの石に腰をかけたかどうかの価値をもって此処に据えている石ではないであろう。今も尚、法然上人の遺徳の語り部の石と思えば、その想いも広がりを見せるのではないでしょうか。

拝観時間:
9001700 大人、高校共300(団270)・小中200(団180
団体30名連絡要・(身障者200
車椅子拝観・境内可介添人要(堂内も背負って拝観可能

6011241 京都市大原勝林院町187 
TEL0757442409 
京都バス大原

写真撮影・小耳眼
      

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