五百羅漢
天寧寺

仏殿(五百羅漢安置)

 この寺は、悲恋無情の出来事から始まる。
彦根城の北に、現在玄宮園にある男子禁制の欅御殿の腰元若竹が、子供を宿していると云う噂が彦根城主井伊直中公の耳にたっした。法度を取り締まるためにも相手の名を問いただすが、がんとして名を明かさない。直中公はお子が多くいて、その相手は若君である。自ら名を明かさなくても玉の輿を考えたなら、如何様な道をとっても相手を解らせたであろう。愛しい君に及ばす迷惑を考えたけなげな恋心が悲恋に終わった。法度を破った濡れ衣を着たまま、手打ちされ、腹の子と共に旅立った。
 悔いても遅し、初孫であった。井伊家菩提寺・清涼寺の寂室堅光禅師の指導のもと追善供養のために、京仏師駒井朝運に刻ませて五百羅漢を安置し天寧寺とした。


南向き中央・宝冠釈迦如来・十大弟子
 
右壇

左壇

東壇

西壇
 全て色あせてはいるが、極彩色仕上げである。
 
 五百人の阿羅漢果(あらかんか)覚者と同義、釈迦の弟子の最高位である。
釈迦の従者・多聞第一阿難陀(アーナンダ)が如是我聞と始まって、釈迦の教えを記憶にたどって述べあげ、四百九十九羅漢の異論の無いものが教典になった。この折同時に持律第一優波離(ウパーリ)によって釈迦から教わった律をのべ、布施のことで阿難陀が口を挟むが、どのような応用か記憶が出ず、そのまま進行、同じく四百九十九羅漢の異論のないものが律として成立。此れで経・律が成立した。論は後に弟子たちの論文から成立するが、この律作成の時、布施の応用が阿難陀から記憶が出なかったことで、後の根本分裂となる。・・・・・・・割愛。
 五百羅漢の表現は、第一結集・教典作成時に集まった阿羅漢果の事である。

布袋
 仏殿の裏に安置、法堂に向かいあう、外から拝観できます。
十世紀の中国禅僧で名を契此(かいし)と云って、岳林寺で九六一年に没。
 僧侶通例の布袋(ずたぶくろ)に所持品(僧侶の財産)一切を入れて担いでいた事から布袋(ほてい)と称されだした。乞食(こつじき)を通して住居も不定、占いはよく当たり霊験新たかな僧であったと言い、中国では弥勒菩薩の化身と信じられている。
 日本中世の禅僧が水墨画に好んで描き人々に愛され親しまれた。七福神の中で唯一の実在人物です。

法堂と羅漢の石庭

幕末の大老・井伊直弼供養塔
 幕末桜田門で無念の死をとげた大老の遺品を四斗樽に納めて供養等の下に埋めている。


拝観時間・9:00〜17:00・一般・高校400・中小学200・団割無
車椅子拝観・仏殿・敷居あり介添え人要
〒522−0022
彦根市里根町232
TEL0749−22−5313


写真撮影・小耳眼



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