世界文化遺産
教王護国寺
東寺・左寺

南大門
南大門
正門である南大門、明治元年(一八六八)に焼失して、現在の門は、明治二十八年(一八九五)に、方広寺西門「九頭龍門・崩れていたため、崩れ門とも云われていた」を譲り受けて、移築したものである。その当時、この門前は茶畑や野菜畑、藁葺の家がある風景であった。


 桓武天皇、山背(やましろ)国を山城(やましろ)国と改め延暦十二年に長岡京より遷都、延暦十五年(795)に東寺の造営を始める。その八年後延暦二十三年(804)空海、唐に最澄らと共に留学(自費)するが、留学生義務年数を終えずに、還学生(公金)の最澄に一年遅れる事、渡唐二年間で純密を習得して帰朝するが、年号は大同元年で平城天皇になっていた。その後、弘仁十四年に嵯峨天皇より東寺を賜る。


五重塔
五重塔 国宝(江戸時代)
 空海が天長三年(826)発願着手、空海が高野山で入定(死去)して四十二年後、着手して五十二年後に完成した。以後、四度の災いにより焼失するが寛永十八年(1641)徳川家光の再建着手で正保元年(1644)三年の歳月を費やし完成して現在に至る。地上から宝珠まで総高五十七メートル現存古塔最高の高さを誇っている江戸期の建造物。空海の曼荼羅の縦積み構想の五重の塔、これを空海は一度も見る事はなかったが、弘法大師、東寺、京都、仏教のシンボルとして親しまれ堂々と存在している。

校倉(宝蔵)

講堂
講堂 重要文化財(室町時代)
 この講堂は空海が東寺を賜った時には無かった建築物ですが、寺伝では天長二年(825)に空海の発願で着工して、空海が高野山で入定の年、承和二年(835)に完成する。しかし、文明十八年(1486)の土一揆の争いで焼失してしまう。現在の講堂は延徳三年(1491)元の位置に再建したもので、大日如来像も明応六年(1497)に再建され整うが、文禄五年(1596)大地震で壊れたものを慶長十年(1605)北政所(おね)が修復した和様建築です。
 講堂内には、大日如来を中心にした五智如来をはじめ、菩薩・五大明王・四天王・梵天・帝釈天の二十一体の仏像が安置されています。これは弘法大師の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密厳浄土の世界)です。六体は後補像ですが、十五体は平安時代前期を代表する、わが国、密教像の秀作です。

金堂
金堂(本堂)国宝(桃山時代)
 寺伝では延暦十五年(796)当初造営時に創建。
文明十八年(1486)室町時代に土一揆の争いで焼失するが、慶長四年(1599)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行にして再建を着手し慶長十年(1605)に完成現在に至る。天竺様(大仏様)の構造を用いて唐、和折衷が見られ桃山時代の代表異色建築です。
 金堂本尊は薬師如来坐像と日光・月光の両脇侍菩薩です。薬師如来の光背には、七躯の化仏を配して七仏薬師をあらわし、台座の周囲には十二神将像を配しています。これら三尊像は桃山時代の大仏師康正の作で密教的な薬師信仰の形をとどめていますが、構造は大仏様で、小振りではあるが、奈良の大仏殿とほぼ同じ様になっています。

東門(不明の門)

毘沙門堂
 都七福神の札所

潅頂院

八島殿

八幡宮

食堂

大師堂
 空海が恵果阿闍梨を訪ねた頃は中国において、まさに純密教が熟しきった頃で、恵果阿闍梨は後継者を求めていた時でもあったろう。恵果阿闍梨が空海の顔を見たときに、まさに得たり、間に合ったと、思わず待っていたと云ったのであろうと思う。
 当然のように、空海は青龍寺の恵果阿闍梨から潅頂式を受けた。
潅頂式には曼荼羅に散華をする。空海の華が落ちた所が大日如来であったところから、大日如来の別名である遍照金剛の名を頂いた。つまり、空海は大日如来の異名をも持つのであり、南無遍照金剛とは大日如来と空海に帰依する事になる。国家と民衆のため、二面性を見事に成した僧空海。その一面の空海が、国家守護の役を果たしたのはこの東寺であった。
 教えを志す者、また、民衆のために働いた空海。後、鎌倉仏教の興隆に対抗して、盛り上げた大師信仰。それだけの事だけで、今に続く姿ではないであろう。

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秘密伝法弥勒八幡山
普賢総持院金光明四天王教王護国寺


拝観時間:
9301730  920日〜319日は1630 
受付は閉門30分前まで・大人500(団350)・高校400(団280)・小中学300(団200
団体30名以上連絡要・学生引率者無料
車椅子拝観一部可
(堂内まで背負って、車椅子を移動させば可)
春秋宝物館特別拝観共通券・大人800(団700)・高校700(団560)・小中学500(団400
6018473 京都市南区九条町1 
TEL075
6913325   
市バス東寺東門前・近鉄電車東寺駅


写真撮影・清耳眼


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