豊国神社
 この辺り三十三間堂周辺は権力者が好んだ場所の一つです。
街中にも勿論権力者は住居しますが、都の周囲で特に少し坂のようになった山の麓に好んで象徴的なものを造ったようです。
太古より、この山城(京都)の地は湿地帯であり、水捌けには苦労しました。現在残る庭園に有る白砂はこれらを解消する一つの手段で、夜の月明かりを取って明かりの効果もありました。
「建築物の在る環境や地形にも注目してください」
 豊臣秀吉は此処に大仏を建立したのですが、結果は豊臣家の崩壊に一役買う事に利用されてしまい、現在では寺社を分離して存続させています。 
 神社と墓の事
 豊国神社も豊臣秀吉を祀る神社で、かっては伏見城に在った門、桃山三唐門と称される一つがこの門です。この門は、伏見城から二条城に移転し、金地院に、つまり、方広寺梵鐘事件を誇大化させた、家康の黒衣宰相と云われた以心祟伝の所であった事が因果を思わす。日暮の門(気がすむまで見たら日が暮れる)と云われ、施された彫刻は左甚五郎のものと言われています。上部に見られる鶴の彫刻は飛び立たないように目を入れてない等と云われています。
 駒形ではないので、駒札とは言いがたいが、この神社は、秀吉にちなみ、瓢箪型の祈願札になっています。
伝わるところによると、秀吉は、戦があるたびに、あるところに必勝祈願をしていたという。
本尊は、空海が唐から授かってきた「宝珠尊融通御」。それは彼の地で高僧より「金銀財宝融通無碍」の秘法を伝授され、勧請したもので、空海が帰朝してから創建したという、融通さん=千本出水西入る=福勝寺である。
源頼朝も融通さんの宝珠重ねの瓢箪を授かっている。特に秀吉は戦の度に此の寺に祈願して、宝珠重ねの瓢箪を功績を重ねるたびに、たして行き、千成瓢箪の旗印として表れているのではないか。

石垣

五輪塔
石垣: 周囲の石垣は豊臣家の大名たちが普請した石で出来ていて、この石を運ぶのに当時の賃金で幾らほどのものでしょうか。各大名は都の高い人件費等、出費に泣いたと言われます。
特に一番北側の石は泣き石と称されるもので、加賀の前田家が普請した石だそうです。

五輪塔:神社の正面を少し歩くと、大きな五輪塔が左側に在ります。「耳塚・鼻塚」と伝わっているものです。現在の感覚では残酷な話であるが、秀吉の朝鮮遠征の折に武将達が敵を討取った功績のしるしとして耳を持ち帰った「本来は首であるが輸送に困難」、耳は二つ有るところから手抜きを封じるために、後には鼻になったという事です。この塔はその御霊を供養する為に建立したと伝わるものです。又、国家安康君臣豊楽の梵鐘の鋳型を埋蔵した御影塚であるとも伝わっています。 

拝観時間:
9001630・境内自由拝観無料宝物館は有料(大晦日休み)
車椅子拝観可(隣の方広寺を拝観して、そこに車を止めて神社に入れます・神社にも駐車場が在ります)
6050931 京都市東山区大和大路正面茶屋町530 TEL0755613802
市バス博物館三十三間堂前・京阪電車七条


写真撮影・清耳眼


     戻る     トップページ