世界文化遺産
宇治上神社
菟道稚郎子はどの様な御方であったのでしょう。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は、応神天皇の皇子で、大鷦鷯尊(おうかささぎのみこと)仁徳天皇と異母兄弟となる人ですが、生没年不詳は不明とされています。
稚郎子の逸話は、高麗王からの表文に「高麗王、日本国に教ゆ」の、一語をもって「教ゆとはなんぞ、堂々とした神国、何ぞ西蕃の教えを受けるべきや、諸辞、無礼なり」と、表文を破り捨て、我が国の名を高めたといい、師は百済の阿直岐(あちき)と、阿直岐が応神天皇に推薦した王仁(わに)の両氏であって、博学を極めていたと言います。父応神天皇が、稚郎子をもって皇太子にした時の逸話は、天皇が、皇子大山守尊(おおやまもりのみこと)と、皇子大鷦鷯尊(おおかささぎのみこと)に「長子と少子、どちらが最も愛しいと思うか」とたずねた時に、長子大山守尊は「長子」と答えたが、大鷦鷯尊は、すでに長者(成人)になっている者は何の心配もないが、小者(幼い)は、夭寿(ようじゅ)「短命と長寿」が解らない、愛憐は特に深いと思いますと、父の思いをくんで、「少子」と答え、稚郎子(わかいらつこ)をもって皇太子に、大鷦鷯尊は皇太子の補佐となりました。弟稚郎子は兄に皇位を継ぐべきだと皇位は継がず、兄は先帝の命は守るべきと、皇位につこうとはせず、皇位継承は三年間定まらず、国を憂いた弟稚郎子は自刃されてまでも兄に皇位継承をうったえました。因みに、大鷦鷯尊はなおも皇位につかず、時をへてようやく仁徳天皇と称したとされています。
宇治墓、宇治川右岸朝日山山頂に「五機内志」を著した並河五一郎が享保十八年(1733)に山頂に墓碑を建立したが現在も墓の所在は不明。

本殿入り口

拝殿・(国宝)
拝殿は鎌倉初期のもので、前には清めの砂を配して、横に見える建物には宇治名水「桐原水」の井が在ります。

本殿(国宝)
  菟道稚郎子の亡き後に、兄の仁徳天皇によって、稚郎子邸宅跡に霊を祀ったのが神社の始まりとされています。宇治上神社を「上離宮」宇治神社を「下離宮」と称して、一体の神社でしたが明治に分離されています。
 平等院が建立されてから鎮守社として興隆を見たとされていますが、その信仰は以前から、離宮八幡としてされていました。
 本殿は日本最古の神殿造りで、平安時代のもの。三つに分かれていて、屋根は拝殿・本殿共に桧皮葺でその曲線が美しい姿を見せています。
 他に境内には摂社が在りますから観察してください、神々を請来して祀っています。

拝観時間:
8001630・自由参拝・無料・車椅子拝観可(介添人要)
6110021 京都府宇治市宇治山田59 TEL0774214634



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