| 宇都宮頼綱(実信房蓮生) |
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藤原北家、藤原道兼の曾孫である、石山寺座主・宗円(朝綱・初代宇都宮朝綱と同名)が、前九年の役に安倍氏調伏の功により下野守護職及び、宇都宮明神(二荒山神社)別当に任じられ、その地に住する事に始まる。世に言う、宗円が宇都宮城を築城した事には、疑問があるのは、宗円が、僧侶であった事である。それは、現地にもはっきとした記録がない事で、藤原秀郷(俵藤太)が、将門の乱に館を構えた跡に築城したのが宇都宮城であるのかもしれないらしい。 |
歌僧和歌四天王、頓阿は、定家死後百余年の人で、蓮生入道(宇都宮頼綱)の嵯峨野別荘に京極殿(定家)の撰定した九十八首の歌仙の歌が襖に(障子)にあったことを、知らしめた人でもある。まだこの頃は、百人一首と云う名称もなく、書物としてはまとめていなかったらっしい。 鳥羽、順徳両帝の御歌を加えて百人一首がまとまる。 ちなみに、百人一首の名称で世に知られるようになったのは、定家の死後三百余年後の室町期末に、歌学者宗祇(将軍家師範)が一巻の書物にまとめてかららしい。現在に至るまで歌のお手本であると共に、江戸期から歌かるたで、庶民にまでおよんだ娯楽となり、歌の二義性や意味を知らなくても丸暗記して、現在まで、歌かるたの競技がおこなわれて親しまれている。 |
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