宇都宮頼綱(実信房蓮生)

  藤原北家、藤原道兼の曾孫である、石山寺座主・宗円(朝綱・初代宇都宮朝綱と同名)が、前九年の役に安倍氏調伏の功により下野守護職及び、宇都宮明神(二荒山神社)別当に任じられ、その地に住する事に始まる。世に言う、宗円が宇都宮城を築城した事には、疑問があるのは、宗円が、僧侶であった事である。それは、現地にもはっきとした記録がない事で、藤原秀郷(俵藤太)が、将門の乱に館を構えた跡に築城したのが宇都宮城であるのかもしれないらしい。
 何れにせよ藤原秀郷は同族であり、因縁めいた事である。
 宗円の子、宗綱の嫡男、朝綱が宇都宮を名乗り、二代成綱の嫡子が頼綱である。
したがって、頼綱は三代目宇都宮城主であり、後に鎌倉幕府初代執権、北条時政の娘婿でもある。
頼綱以降は、藤原北家の流れで名門であると共に、北条家、つまり,因縁かな証空と同じく、桓武平の流れにも合流する事となる。
 くわえて、父成綱は、歌人でもあり、頼綱もその血を継ぎ、歌に長じる。宇都宮歌壇は地方での和歌制作活動の中心的存在で、日本三大歌壇(京都・鎌倉)と称された程であり、その基礎を固めたのも頼綱である。
また、藤原定家(さだいえ)を師に、京都歌壇と宇都宮歌壇との繋がりを強めた。
同族の定家とも懇意にして、定家の子、為家の舅にもなっている。
 小倉百人一首(九十八首)も、頼綱(蓮生入道)が定家に依頼して、定家が選集したものが基礎になったものであることは、その親しさと、定家が認めていた人物である事が偲ばれる事であろう。
 基礎と云うのは、当時は百人一首という名称はなく、一巻の書物には成っはいなく、世には知られていなかった。この歌集が世に明らかに一巻の書物に成って、百人一首と名称が定まったのは、定家の死後、約三百余年、室町末期の事であったらしい。いわば、歌の手本とも云うべきものが、撰ばれて蓮生入道に贈られたことになる。
        


 歌僧和歌四天王、頓阿は、定家死後百余年の人で、蓮生入道(宇都宮頼綱)の嵯峨野別荘に京極殿(定家)の撰定した九十八首の歌仙の歌が襖に(障子)にあったことを、知らしめた人でもある。まだこの頃は、百人一首と云う名称もなく、書物としてはまとめていなかったらっしい。 鳥羽、順徳両帝の御歌を加えて百人一首がまとまる。
 ちなみに、百人一首の名称で世に知られるようになったのは、定家の死後三百余年後の室町期末に、歌学者宗祇(将軍家師範)が一巻の書物にまとめてかららしい。現在に至るまで歌のお手本であると共に、江戸期から歌かるたで、庶民にまでおよんだ娯楽となり、歌の二義性や意味を知らなくても丸暗記して、現在まで、歌かるたの競技がおこなわれて親しまれている。


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